年間第30主日(ルカ18:9-14)

先週の説教で、研修を東京で受けてきたという話をしたのですが、話さなかったことが1つあります。それは右足親指付け根の痛みのことです。東京に行くその日、つまり13日(日)の朝、突然痛みが始まりました。何の痛みかまったく思い当たることがないのに、東京に着いた頃にはもう横断歩道を青信号で渡りきれないほど足を引きずって歩いていました。

それはもう、足を切って捨てたいくらいの痛みだったので、知り合いのカトリックの医者にメールで症状を説明し、外反母趾だろうかと尋ねたところ、痛風の疑いもあるという返事で、痛み止めの薬を買って飲み、五島に戻ってから必ず病院で診てもらうようにと指示を受けました。

それなのに「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、戻ってから1週間、痛み止めも飲まずに放置していたのですが、先週の木曜日の夜にまた痛みだし、痛くて眠れなかったため翌朝慌てて奈良尾病院に連絡を取りました。

実は戻ってきてから、生活習慣病検診を受けようと有川病院に相談に行ったのです。すると12月26日まで空いてないと言われ、12月26日の申込はしたものの、こっちとしてはそれまでに何かあったらどうするのかと、イライラしながら週末過ごしていたのです。

不安は的中し、木曜日の夜中2時に、毛布をそっと載せることもできない状態になりました。奈良尾病院ではてっきり血液検査をしてくれるものと思っていましたが、「12月26日に生活習慣病検診を受けるのでしたら、慌てなくてもよい」とあっさり断られ、レントゲンを撮って、「骨の異常は何も無いから、さしあたって痛み止めを出しておきます」と言われて診察は終わりました。きっと、12月26日の検査では、尿酸値がどうのこうのと言われて、「病人」という診断が下るのでしょう。とうとうわたしも、病人の仲間入りということになりそうです。

今週の福音朗読は、「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえですが、ファリサイ派の人の祈りは、わたしのこれまでの生活と重なると感じました。「神様わたしは、これこれの者でないことを感謝します。」つまり、「神様わたしは、毎日酒を飲むわけでもないし、美食家でもないし、また、すでに何人もいる糖尿病や痛風の司祭でもないことを感謝します」と考えていたのです。自分にはまったく関係が無く、これからも決してそういうグループには含まれないと、本気で思っていたのです。

ところが今回のこの痛みです。まだ診断が確定したわけではありませんが、いろいろ話を総合すると、痛風の疑いが濃厚です。ここにきて初めて、わたしのこれまでの生活は、弱い立場の人を見下していたのではないか、見下していないとしても、自己管理をして、病気を抱えるような司祭には陥らないと考えていたかも知れないと思ったのです。

次に徴税人の祈りを自分に重ねてみます。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(18・13)今のわたしでしたら、「神様、痛風のわたしを憐れんでください」となるでしょうか。頂いた大切な体を壊してしまった申し訳ない気持ちで遠くに立ち、顔向けもできないので目を天に上げようともせず、「憐れんでください」と祈る。

今まで、「憐れんでください」という祈りはわたしの祈りになかったのに、横断歩道もまともに渡れず、「病気になったわたしを憐れんでください」と祈るしか言葉が見つからない。弱い立場になってみてやっと真剣に神と向き合った気がしました。

あらためて福音朗読を読み返す時、「義とされて家に帰った」(18・14)というのは、神とどのように向き合えばよいのかを正しく理解しているということではないでしょうか。わたしは意識的ではないにせよ、「これまで病気一つしなかったことを感謝します」と神に祈っていました。健康であったがゆえに、「あなたに頼るしかないのです」という気持ちに欠けていたのです。

反対に、「神様、病気のわたしを憐れんでください」そうとしか祈れない時は、「あなたに頼るしかないのです」という気持ちが充ち満ちています。今まではどこか、わたしは弱い立場のグループではないということを自慢していました。

今は病気を認めなければなりません。ここに至ってようやく、神により頼んで生きることが義と認められ、神により頼むより自分により頼む人は義と認められないという今週のたとえが理解できたのです。

もちろんたとえに登場するファリサイ派の人は立派な人です。当時の律法に求められている以上の努力を喜んで果たしているからです。立派な人かどうかというのであれば、徴税人は立派な人とはほど遠い生き方をしていました。ですが負い目があるから、顔も上げられない生き方をしていたからこそ、神により頼む心を失わなかったのです。

神により頼む心を失わないこと。神により頼む心を保ち続けること。これが今週わたしたちに求められていることです。それは例えて言えば自転車に乗っているようなものです。自転車はずっとペダルを踏み続けなければ倒れてしまいます。わたしたちも、ずっと神により頼んでいなければ、立っていられない生き物なのです。健康だから自分で立っていられる、病気だから神により頼んでいるのではないのです。

痛み止めを飲まなければ耐えられないほどの痛みを味わいました。いつまでも自分の健康には頼れないことがよく分かりました。唯一、頼り続けることができるのは神のみです。

徴税人が胸を打ちながら言った「神様、罪人のわたしを憐れんでください」をわたしたちの祈りの出発点にしましょう。自分の努力を並べ立てても、神はその声を放置なさいます。「神により頼むわたしなりのきっかけを持っているだろうか。」今週考えてみることにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼不摂生をしているから今回のような痛みが発症するのだろうか。必ずしもそうとは言えない。自己管理をするに越したことはないが、真面目に取り組んでいても痛くなる人もいるだろう。今回のことで1つだけ分かったのは、すぐに問い合わせることのできる人(医師)を知っておくことだ。
▼東京で激痛に襲われた時、最初に打ち明けたのは東京で面会した2人の恩人だった。そのうちの1人から「連休中ですが、診察してくれるところはいろいろあるので、どうしても耐えられない時は受診してください」とアドバイスを受けた。しかし、道行く人すべてが他人の東京で、どうやって病院を見つけたらよいだろうか。恩人には申し訳ないことをしたが、結局病院はさがさなかった。
▼次に問い合わせたのが、カトリックの医師である。遠方ではあったが、メールで東京に来てからのことを思い出す限りメモして伝えた。その後のことは先週の「ちょっとひとやすみ」に書いたので省略するが、やはり困った時に頼れる人を持っていなければならないことを痛感した。
▼なぜか司祭は医者嫌いである。例外もいるのかも知れないが、わたしは例外の司祭を知らない。手遅れになって医者に診察してもらい、ご丁寧に「手遅れです」と宣告される司祭が多い。長崎教区に100人くらいの教区司祭がいて、何らかの不安材料を抱えている人の割合はどれくらいだろうか。
▼一般企業でも、社員の健康管理には相当気を遣っていることだろう。そういう一般企業と比較するなら、長崎教区司祭の危険度は何倍も高いはずである。長崎教区司祭の何人が、身体の異常を感じた時すぐに問い合わせることのできる医師を知っているのだろうか。<<
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===