年間第29主日(ルカ18:1-8)

東京に行ってきました。教区広報担当者の会議でした。新潟の菊地司教さまが基調講演をしてくださいました。福音宣教のために、現代社会で人と人とをつなぐ道具になっているものを、特性をよく見極めながらも、積極的に使い、福音宣教に役立てるように呼び掛けてくださいました。

現代社会で人と人とをつなぐ道具として特に目立っているものは、ソーシャルネットワーキングサービスという枠に含まれるもので、たとえばフェイスブックmixiや、ツイッターなどを指しています。

これらの道具はもちろん危うさを含んでいます。こうしたネット上の道具で出会った人同士がトラブルになるケースもありますので、賢明な使い方が求められますが、恐れているばかりではこれだけ社会に浸透している場をみすみす逃すことになります。経験のある人などに教えてもらったりすると、福音的な価値観を広める場にしていくこともできます。

さて福音は、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教える」というねらいで、「やもめと裁判官」のたとえが取り上げられています。やもめは、相手を裁いて、守ってもらうために、裁判官のもとにひんぱんに通っています。この裁判官は、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」(18・2)として取り上げていますから、強い者にこびへつらい、弱いものを踏みつけるような態度を取っていたのでしょう。時代劇で言えば、水戸黄門に成敗される悪代官だったのだと思います。

しかし、悪代官であっても自分の主張を取り上げてもらう人が他にいないやもめにとっては、どうしてもこの裁判官の心に訴えかけて、自分を守ってもらう必要がありました。やもめにできるたった1つの手段は、「うるさくてかなわない」「さんざんな目に遭わす」そう思わせるほどひっきりなしにやって来て求め続けたのでした。

わたしたちも、絶対にあきらめないで願い続ける、期待し続けるという体験を、わたしたちと神との間で持ちたいものです。そのために、自分に身近なところで、あきらめないでよかったなぁ、この日をずっと待っていてよかったなぁという体験を積むと、それが役に立つと思います。

先週の東京出張で、わたしは広島教区から来ていた2人の広報担当者と知り合いになって帰って来ました。中田神父は広島カープのファンなので、今年はかなり期待して野球を見ているという話を別の人と話していたのです。するとその話に広島の広報担当者のかたが大変興味を持ってくれまして、すっかり意気投合して話に花が咲きました。

話は脱線してしまいますが、わたしの応援しているチームは16年ぶりにAクラスに入り、ようやくクライマックスシリーズを勝ち上がってセリーグの優勝チームに挑戦できたのです。16年もこの日を待っていました。夏の蝉でさえ、7年地下に潜っていれば1週間地上で大声で鳴くことができます。わたしは16年間、応援しているチームの話を地下に潜って話していたのですが、今年ようやく話すことができたのです。

けれどもわたしはその間決してあきらめたりはしませんでした。わたしの中には、応援し続ける理由がいくつもあって、あきらめる理由は一つも無いからです。わたしの名前は中田輝次(なかだこうじ)ですが、下の名前の「こうじ」というのは往年の名選手「山本浩二」から取ったと聞かされています。そして、父はわたしを膝に抱いて、「こうじ頑張れ、こうじ頑張れ」と言いながら野球観戦をしていました。

ほかにもわたしが今なお日本シリーズに20年近く出たことのないチームを応援する理由はあるのですが、そうしたことをさんざん話していたら、今年出会った広島の広報担当者のかたから、「広島教区の司教さまに『長崎には熱烈カープファンの司祭がいます』とお伝えしておきます。ぜひおいでください」とまで言われてしまいました。わたしも心から長崎教区を愛しておりますが、どうしても広島に来てほしいと言われたら、広島だったら考えてもいいなぁと思っています。

つい脱線してしまいましたが、わたしにとっては応援している球団が「あきらめないでよかった、この日をずっと待っていてよかった」という体験になっています。16年この日を待つことができるのですから、イエスが気を落とさずに絶えず祈らなければならないと励まし続けることをもっと身近に考える材料を、わたしたちは持つ必要があると思います。

わたしたちには、それぞれの体験の中で、「気を落とさずに、願いが叶うまで待ち続ける」具体的な例がきっとあると思います。その、自分でしか経験していないような貴重な体験を、もっと周りの人を力づけるために役立てて欲しいです。

気を落とし、もう神に願うのはやめよう、もう神に祈ってもしかたがないと感じている人がいるかも知れません。そうした人に、もう少し祈る努力を続ける気持ちに向かわせることができるなら、わたしたちの個人的な体験は自分だけのもので終わらずに、人に役立つことになります。

エスは最後に、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(18・8)と言っています。一人でも多く、生活の中で祈り続ける人、信仰が生活の土台になっている人がイエスの再臨の日まで立っていることを願いたいと思います。昼も夜も主に叫び続ける力を、今日のミサの中で願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼東京に出発した日曜日は、浜串での朝のミサの時から右足の親指付け根に痛みを感じ、ミサ中は悟られないようにがまんしていたが、荷物を抱えて移動し始める時にはすでに痛みが隠せないほどになっていた。スーツケースにはローラーが付いているにもかかわらず、スムーズにケースを押して歩くことはできなかった。
▼痛みは東京に行くともう限界にまで達していた。東京で会いましょうと連絡を取っていた人には正直に現状を話すと、「それは痛風ではないでしょうか」と言われ、東京をあちこち歩く間もずっと気遣ってくださり、申し訳ないことをした。
▼痛みが引く様子もなく、メールで連絡を取れるカトリックの医師に現状を報告すると、痛み止めのクスリを買い求めるようにとの指示。「ロキソニン」という錠剤を毎食後に飲む。すると、痛みがうそのように軽くなり、東京での教区広報担当者会議を無事にこなすことができた。
▼夜8時からの懇親会で、なぜわたしが広島カープを応援するのかを力説した。名前がそもそも「山本浩二」からもらっていることは話したが、人には赤い血が流れており、本性的に広島カープのファンになることができるように神から創造されているのだとホラを吹いた。
▼研修会の最終日は、聖イグナチオ司教殉教者だった。殉教者だから祭服は赤である。最近サッカーで「日本を青く。世界を青く」というキャッチフレーズを耳にするが、それをもじって、「今日と明日(聖ルカ福音記者)は、世界中の教会が赤の祭服でミサをします。今日と明日(セ・リーグ巨人対広島のファイナルステージ)、日本を赤く染めましょう!」とまくし立てた。
▼以前の「ちょっとひとやすみ」で、広島カープの試合を、広島で応援する方法が1つあると言ったことがある。それは、わたしが広島で働くことだと内心思っている。ただし自分から手を挙げることはしない。それは神が決めることだから。でももし、もしそういうことになれば、考えてみる価値はある。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===