四旬節第1主日(ルカ4:1-13)

お休みをいただいて、多方面の人と会ってきました。今年の黙想会の指導司祭である福岡教区の神父さま、わたしが7年間記事を書いてきた子供向けのカトリックの冊子「こじか」の編集部の方、去年浜串のクリスマスミサに参加して下さったエッセイストの方、マリア文庫が長くお世話になっているカトリック点字図書館の館長、福見教会100周年でお世話になっている写真家の方、ほかにもあと2人面会しました。精力的に動いたおかげで、いろいろ話が進みました。

さて四旬節に入りました。灰の水曜日、頭に灰を受ける式の中で、「この灰は、わたしたちに使われるために燃やされて灰にされたものです。わたしたちが 枝として使っていなければ、灰にならずに済んだかも知れません。わたしたちのために、灰になる状態まで使われました。

これは、十字架の上でいのちをささげるイエスの姿に通じるのではないでしょうか。イエスは、わたしたちのためにご自分の命を使ってくださいまし た。身を粉にして、灰になるまでわたしたちのためにご自分を使ってくださったと言ってもよいでしょう。」と話しました。

灰の水曜日に話したとおり、すべてを使われるために差し出された灰をわたしたちは頭に受けました。それは、わたしたちがイエスの模範を受け入れるためです。わたしも、だれかのために使われて灰になる。だれかのために自分の身を粉にする。そうして、イエスの模範を受け入れ、キリスト信者として成長するのだと思います。「回心して福音を信じなさい。」この心がけで、四旬節を開始したのでした。

四旬節第1主日に選ばれた福音朗読は、イエスが荒れ野で40日間の試練を受けた場面です。40という数字は旧約聖書を思い起こさせるための数字かも知れません。イスラエルの民は、砂漠で40年の間さまよい、試練を受けました。その間に、パンが無い、肉が食べたいと不平を言い、 モーセが山に登って十戒を授かっている間にもモーセを待ちきれずに金の子牛の像を造り、その偶像を拝み、いけにえを献げましたし、さらに約束の地に歩みを進める中で喉が渇いたと言って主を試したりしました。

今日の悪魔の誘惑の場面も、かつてのイスラエルの民の過ちを思い起こさせます。イエスは悪魔の誘惑に対して、申命記を引用して答えています。申命記イスラエルの民が砂漠で飢えと渇きのために唯一の神を信じなくなった過ちを、これから入る約束の地では二度と繰り返してはいけないと諭す書物ですが、イエスもまたこれから入る宣教生活に同じ過ちを繰り返さないという決意の表れを示しているのです。

エスは誘惑する悪魔に対して、ご自身の決意を表しているだけではありません。人間は洗礼によって神の子とされてからも、さまざまな誘惑に取り囲まれ、弱さのために過ちに陥ってしまいます。そんな時、神に信頼を置いて生きることをいつも忘れないように、どんな巧妙な罠、たとえそれが神の言葉を引用したものであっても、罠に陥らないように、ご自分の模範を示してわたしたちにも注意を促しているのです。

具体的にお一人お一人の生活に置き換えてみましょう。まずイエスが40日間、悪魔から誘惑を受けられたことについてです。40という数字は、長い期間を表す象徴的な数字です。人間にとっての長い期間とは何でしょうか。

わたしはこの期間を人生のことだと考えます。イエスが誘惑を受けた40日間は、人間の長い一生を象徴しているかも知れません。人間の長い一生は、悪魔から狙われていて、いつも誘惑にさらされています。ただ、イエスの40日間が聖霊に満ちて、「霊」によって引き回されていたように、誘惑にさらされている人間の一生も、一方で聖霊に満ちて、霊と共にある一生なのです。人間の一生は、パンだけで生きている一生ではありません。神の霊と共に生きているのですから、さまざまな誘惑の際にも、神が共にいることを思い出すことが大事です。

次に悪魔がイエスを高く引き上げて、自分を拝むように強要する場面があります。高く引き上げるとは、何かの幸運を得てとんとん拍子に出世の階段を上り詰めるとか、思いがけない形で資産を手にし、何不自由ない生活を手に入れるなどの姿を考えるとよいでしょう。

こんな時、つい人間は上り詰めた地位を過信し、または手に入れた財産を当てにしてしまします。そんな場面が一生涯のうちに一度は巡ってくるかも知れません。そんな時にイエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と注意するのです。

どんなに高い地位に上り詰めても、どんな財産を手に入れても、人はすべてを自分で手にしたのではないのです。霊が共にいて実現した人生であることを忘れず、どんなに高い場所に連れて行かれても、神の前にへりくだることを忘れてはいけないということです。

最後に悪魔は、イエスエルサレム神殿の屋根の端に立たせ、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」と挑みます。人間の一生が、霊と共にあるのなら、その命を投げても神が守り抜いてくれるに違いない。

これに対してイエスは、「あなたの神である主を試してはならない」と言われました。霊と共にある人間の一生において、神の霊が人間に試練を与える場合は人間を鍛え育てることにつながりますが、同じことを人間が試すなら、それは不信仰につながります。わたしたちと共にいてくださる神の霊は、必要なら試練を与えて人間を鍛え育てます。人間が自分の一生を危険にさらして鍛えるのではありません。

エスは、ご自分の40日間にわたる悪魔の誘惑を通して、人間の一生に起こりうる誘惑との戦い方を身をもって示されました。悪魔はあらゆる方法で、人間の一生に誘惑を仕掛けてきます。それでもわたしたちは、自分の人生のすべてが霊と共にあるということに信頼を置いて生きていきましょう。

わたし一人で受ける悪魔の誘惑は耐えられない誘惑ですが、霊と共にあって受ける誘惑は人間を鍛え、育てます。わたしの一生が、霊に満たされ、霊と共にある一生であることを繰り返し思い出せるように、このミサの中で照らしを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼大都市の交通について。普段バスやJRの電車を利用しない田舎暮らしの自分にとっては、大都市に来たときの公共交通機関の利用は大変な苦労である。今回もずいぶん苦い思いをした。
▼今年の黙想会指導司祭と佐賀で軽く打ち合わせをしてからJRの特急で博多に移動し、地下鉄に乗り換える。計画に沿って天神・中洲川端福岡空港と地下鉄を乗り継ぐ。路線図では一直線の停車駅なのだが、出口を間違えると簡単に目的地を見失ってしまう。天神でビックカメラに行くだけで、30分あまりウロウロした。おまけにお目当ての品物を店頭で買う時間が無くなり、結局宿でネットショッピングする始末。
福岡空港も一時期とは隔世の感があった。まるで羽田空港のように広く複雑になっていて、時間も無くなってくるし慌ててお土産を買ってみたらANAの袋に詰め込まれた。行きの航空会社はJALだというのに。しかもお土産の一つは東京で真っ先に会う人のために買ったのに完全に渡すのを忘れて持ち帰って来た。
▼羽田には定刻の17時30分に到着したが、宿に着くための地下鉄を見つけられない。今回の外出のために、乗り換えのシュミレーションをパソコンソフトを駆使して何度も繰り返し、iPadにも地図や路線経路情報など、念には念をいれて準備したにもかかわらず、地下鉄乗り場を駅員に尋ね、さらに「よく分からないけどとにかくこの電車に乗るか」と決心するまでかれこれ30分かかってしまった。地上に上がってからもほぼ宿泊先まで来ているのに宿が見つけられない。先に宿で待機してくれていた面会人に自分を見つけてもらって事無きを得た。
▼下調べを入念にしていても、最後は近くにいる人のお世話になっている。本当に大都市の交通には泣かされる。大都市での移動はわたしにとっては例えるなら「漂流」である。たどり着くかもしれないし、着かなければ手当たり次第見つけた人に「おーい、助けてくれー」と叫ぶ。たまにしか上京しない人達は、皆さん似たような体験をしているのだろうか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===