年間第5主日(ルカ5:1-11)

2月13日水曜日から教会の典礼暦は四旬節に入ります。今週の年間第5主日は、四旬節の心構えを学ばせるかのような福音朗読が選ばれました。物語は、「漁師を弟子にする」という場面です。まず、イエスと、まだ弟子になっていないシモンとその仲間の漁師たちとのやり取りで、押さえておくべき点を指摘したいと思います。

エスはシモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(5・4)と言われますが、これは厳密には、シモン一人に命じたのでしょうか。日本語にはわざわざ書かれてはいませんが、網を降ろして漁をするということから考えると、シモンとその仲間に、漁をするように命じたと考えるべきです。

実際、日本聖書協会から出ている和英対照の聖書に当たると、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、『あなたとあなたの仲間は』漁をしなさい」という意味の文章になっています。このように命じるのはごく当然のことであり、英文はその点をはっきりと文字に表しています。

では、イエスの命令に対して、シモンの返事はどうでしょうか。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5・5)と答えています。

本来なら、文字には現れていない部分を汲み取って、「しかし、お言葉ですから、『わたしとわたしの仲間は』網を降ろしてみましょう」という意味で理解すべきだと思います。ですが、この部分に当たる英文と照らし合わせると、そうはなっていないことが分かります。

実際は「わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、『わたしは』網を降ろしてみましょう」と書かれているのです。イエスの命令には「あなたとあなたの仲間」と書かれているのに、ペトロの返事にはペトロだけの決断であったことをうかがわせる書き方をしているわけです。

恐らく、だれがどう考えても網を降ろすという行為は理解できなかったのでしょう。賛成してくれる人は誰もいなかったので、ペトロは単独でも網を降ろすという決断をしたわけです。ではなぜ、ペトロは自分一人だけでもイエスの命令に従い、網を降ろそうと考えたのでしょうか。

良い結果が見込めそうだったから従ったのではありません。下手をすると、ペトロは大群衆の前で大恥をかくことになります。ベテラン漁師が、漁師の経験も無いイエスの命令に従って網を降ろしたのですから。仲間たちの信用を失う可能性だってありました。それでも、イエスの言葉を信じることができたのはなぜでしょうか。

ここからはわたしが考えたことですが、ペトロはイエスの目を見て決心したのではないかと思います。イエスが、もし確信のないまま漁を命じたのであれば、大自然の恐怖と日々戦いながら漁をしているペトロは見破ったはずです。まったく曇りのない目で見つめられたペトロは、「この方はわたしに何かを体験させようとしている」と直感したのではないでしょうか。

聖書の世界に相手の目を見て判断するという習慣があるかどうかは分かりません。けれども、海の男たちは、荒れ狂う波の中でお互いに意思疎通を図るために、手で合図を送ったり、目で合図したりするのではないでしょうか。ペトロの長年の経験が、漁を命じたイエスの目に、偽りはないと判断したのだと思うのです。

結果はどうだったでしょうか。昨晩の不漁が嘘のような大漁でした。夢中になって、魚を引き上げたために、船は沈みそうになりました。ペトロは無数の魚を捕らえただけではなく、実はイエスによって捕らえられたのです。

これが、イエスのもくろみだったと言うべきでしょう。不思議な漁を経験させて、自分がイエスに捕らえられ、イエスが自分を生かしてくださる方だと信じた。この体験をペトロに積ませることが、この不思議な漁の目的だったのではないでしょうか。

エスの言葉は実に印象的です。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(5・10)イエスが言う「人間をとる」とは、単にペトロが漁師だから、漁師に理解できる言葉を選んだのではありません。「あなたがわたしに捕らえられ、わたしに生かされたように、あなたもだれかを捕らえ、わたしによってその人を生かす。そのための漁師になるのだ。」これがペトロに与えられた新しい使命だったのです。

シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブヨハネも同様でした。彼らもイエスに捕らえられ、イエスが自分たちを生かしてくださる方だとはっきり理解したのです。「彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」(5・11)舟を陸に引き上げたのですから、もはや彼らは一介の漁師ではなくなりました。捕らえられ、生かされる体験を多くの人に伝える新しい生き方に移し替えられたのです。

今週の漁師を弟子にする物語は、わたしたちの教会にも問いかけていると思います。イエスは人を捕らえ、捕らえた人を生まれ変わった人として生かしてくださる方ですが、わたしたちの中に、わたしたちの教会に、長崎教区に、信徒・修道者・司祭の中に、イエスに捕らえられ、イエスに変えられて生きている人がどれだけいるでしょうか。

集合の笛が鳴ったので集まりました。右向け右の合図があったので右を向きました。これでは、イエスに捕らえられた人とは言えないと思います。そして、イエスに捕らえられ、変えられたことを新しい人に伝えることもできないと思うのです。

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」イエスの言葉は、わたしたちにも必要な言葉です。本来わたしたちは、イエスさまに捕らえられた者です。その姿をもう一度呼び覚まし、新たな福音宣教へと繋げていきましょう。わたしたちが伝える材料は、イエスに捕らえられ、今を生きているという体験です。

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ちょっとひとやすみ
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▼間違って本を注文した。普通であれば、発送する前にキャンセルできる。だが今回は事情が違う。AmazonKindleストアで購入した洋書である。Kindle書籍とは、ダウンロードして読む書籍のことで、購入すると即座にタブレット等にダウンロードされて読むことができる。
▼だがメリットばかりではない。今回は興味を持った洋書を注文したのだが(まだまだ日本語のKindle書籍は少ない)、よくよく見たらそれはスペイン語だった。アメリカで発売されている書籍だったのであまり気にせずに「買う(BUY)」のボタンをクリックしたのだが、ダウンロードされてきたのはスペイン語だった。
▼英語もトボトボしか読めないのに、スペイン語が読めるはずがない。なぜうっかりスペイン語版を購入したかが問題だ。もしかしたら、現在アメリカでは書物を売り出す時に英語版とスペイン語版を同時に並べることが積極的に行われているのかもしれない。
▼返却することもできず、しばらく呆然としていたが、しかたなく英語版をよく確認して購入し直した。書名はここでは紹介しないが、表紙が酷似していれば、全体の1%くらいは、間違うのではないだろうか。あるいはそれも見越しての販売戦略か。
▼ダウンロードして読む書籍は、洋書に限って言えば印刷されたものよりかなり安い。資源を消費しないから、コストが掛からないだろうし、在庫を抱える必要も無い。そうした事情もあるのだろう。今回間違って購入した本は、10ドル50セント、ダウンロード書籍としては高いほうだったかもしれない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===