四旬節第2主日(ルカ9:28b-36)

今週の福音朗読の場面を、4つの部分に区切って考えてみたいと思います。1つめは三人の弟子だけを連れて山に登る部分です。山は神さまと出会う場所と考えられていました。

2つめは、イエスが祈っておられると顔の様子が変わり、服は真っ白に輝き、モーセとエリヤが現れてイエスと語り合う場面です。イエスの服が真っ白に輝くという様子は、この世の姿をはるかに超えた姿です。

またモーセとエリヤは旧約聖書の律法と預言書を象徴していると考えられますから、旧約聖書が引き合いに出されてイエスの最期が解き明かされているわけです。

3つめは、2つめの光景を受けての弟子たちの反応です。ペトロが代表して、「仮小屋を三つ建てましょう」と言いました。ところがペトロの提案には答えが返ってこなくて、雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(9・35)と言う声が聞こえたのでした。

4つめは、すべての出来事が終わったあとの様子です。「その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。」(9・36)出来事はその時だけで終わらず、十分理解はできなかったものの、ずっと心に納めてイエスのあとに従う生活が続くことになります。

4つの部分に分けて取り上げました。実は今週の福音朗読、わたしたちキリスト者の日常生活をうまく言い当てているのではないでしょうか。わたしたちもイエスに連れられて、ペトロ、ヨハネヤコブと同じ体験をしているということです。

こういうことです。わたしたちは日常生活の中で何度となくイエスに連れられて山に登り、日常を超える体験をし、わたしたちなりに答えを申し上げ、その答えに返事はないけれども「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声がして、また日常生活に戻り、イエスの声に聞き従う生活を続けているのです。

さらに確信を持つことができるように4つに分けた部分それぞれに説明を加えましょう。まずわたしたちはイエスに連れられて山に登ります。12人いるうちの数人がイエスに連れられていきました。これは次のような意味合いかもしれません。イエスに声をかけられ、イエスに喜んでついて行こうと思っている人だけが、呼びかけを理解できて山に登ることになるということです。

みんながみんな、呼びかけに気付くわけではないのです。呼びかけを面倒だと感じる人もいるし、呼びかけを適当に流してしまう人も出てきます。それぞれの能力に応じて、イエスは「一緒に山に登ろう」という声をかけるのですが、それぞれの能力に応じて答える人々が、次の段階に進みます。

2つめは、イエスがこの世を超越した姿に変わる場面です。そこでは旧約聖書の代表者が現れ、イエスの最期について語り合っています。これは、わたしたちの生活のどの部分に当てはまるのでしょうか。わたしは、ミサの場面がもっともよく当てはまると思います。

ミサの中では、旧約聖書が朗読され、イエスの最期も含めてイエスの生涯が語られます。パンとぶどう酒の形のもとにイエスが現存するという、この世を超越した出来事にも遭遇します。みことばの食卓とご聖体の食卓から成るミサが、日常を超える体験をする場所、イエスに連れられて登る山なのです。

もちろん、健康がすぐれず、ミサに来ることのできない人もいるでしょう。その人にもイエスは山に登ろうと呼びかけるのでしょうか。わたしはそうだと思います。病床にあって、また教会から遠い地域に住んで送り迎えを頼めない中で、イエスはその場ででもよいから、わたしと一緒に山に登ろうと呼びかけるのだと思います。

そして聖書を開き、その日の典礼の箇所を朗読するなら、日常を超えた時間を共にすることができるでしょう。ミサの聖書朗読で神が語り掛け、ご聖体が授けられることが日常を超えているように、ミサに来ることができなくても、自分のいる場所でみことばを響かせるなら、日常を超える体験が可能です。

3つめは、日常を超える体験に、わたしたちが言葉で答える場面です。わたしたちは、みことばの招きとご聖体の招きに、自分なりに答えようとします。間近にいた弟子たちさえ、正しく答えているかも分からず、「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかった」とあります。

わたしたちが自分で作り出す答えは、ほとんどが見当外れかもしれません。けれどもわたしたちが日常を超える体験をしてそれに答え続けることは、呼びかけに何とか答えようとする大切な部分だと思います。幸いにペトロはとんちんかんなことを言っても叱られませんでした。

最後の4つめは、すべての出来事が終わったあと、「そこにはイエスだけがおられた」ということです。わたしたちの的外れの多い生活の中にあっても、唯一間違いのない生き方「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」この声に常に耳を傾けて生きていく。それが、わたしたちの日常生活のすべてではないでしょうか。

今週の福音朗読は、わたしたちに確実な信仰生活の歩き方を示しています。主任司祭、評議会、それぞれの部会、精一杯教会をもり立てようと努力していますが、なかなかめざましい成果には繋がりません。ピントがずれていることもしばしばです。

そんな中でも、どこかでイエスの声が響きます。その声を、耳を澄まして拾いながら、イエスが導く復活の栄光へとついて行きましょう。イエスの声に聞き従う人だけが、イエスの最期、イエスの栄光の姿を仰ぎ見ることができるのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼東京の続き。お話しできた人との話題の中で、「すれ違う人と接触」という話題についてまず書きたい。満員電車の中で、または朝の通勤時間帯に、すれ違う人と接触するということは十分起こりうる。ただし「ぶつかったから謝れ」と言われても困ることもある。
▼お互い急いでいる中で、自分が前に進もうとしたときにたまたま正面からやって来る人がいるとしよう。ほとんどの場合すれ違うことになるが、こちらも人混みの中で歩いている、相手も人混みをかき分けている。そんな中で正面衝突を避けるのは、なかなか難しいのではないだろうか。だから「ぶつかったから謝れ」と思って欲しくないのだ。
▼東京で2泊してさえ、たくさんの人とすれ違い、接触しそうになることが何度もあった。五島列島に住んでいて、向かってくる人と接触しそうになることなど皆無である。だから、「ぶつかった。謝れ」と言われたことのある人には本当に同情する。かわいそうである。その人が五島に住んで、のんびり暮らしていたら、決してそんなトラブルに巻き込まれたりしないのに。そんな中でも、話を伺ったその人はけなげに東京暮らしをしている。
▼東京での具体的な話は、プライバシーにもかかわるので控える。東京からの帰りの便。わたしはあえて、通路側の席を指定して購入した。荷物を出し入れするのに、窓側にいると迷惑をかけることになるので、あえて迷惑をかけないで済む通路側を帰りの便では予約した。当然窓側にはだれかが座るはずである。どんな人が座るのだろうかと考えた。
▼何とかフライトの前にメルマガ配信を済ませたくてギリギリまで粘った。そのせいで「お客さま。長崎行きの飛行機に搭乗予定ではありませんか?」と声かけまでされてしまった。さんざん粘ってようやく機内に乗り込んだので、ほとんどの席が埋まったあとに自分の席にたどり着いた。やはり通路側の席は正解だった。
▼わたしの席の隣、窓側には、黒縁メガネのきゃしゃな男性が座っていた。離陸してしばらくしてから客室乗務員が飲み物を配り始めた。「何にいたしましょうか。」窓側の席の人が「温かいお茶をください」と返事をしたとき、隣りの人が女性だと初めて気がついた。まったく化粧っ気もないからてっきりきゃしゃな男性だと思い込んでいたが、声を聞けば間違いだったと言わざるを得ない。それからの時間はかなり居心地が悪かった。
▼飛行機を降りて、わたしはがまんの限界でトイレへ。トイレを済ませて高速バスの列に並んだが、残念ながら最初のバスには乗れなかった。次のバスに回されて早い順番で乗り込んで出発を待っていると、運転手が「あと●人乗れますよ。乗りますか?」と声をかけている。
▼目一杯お客を乗せてドアが閉まり、わたしのそばで「すみません。座らせてください」と声をかける人がいる。見れば飛行機で隣に座っていた人ではないか。わたしはビックリして声が出なかったが、相手から「飛行機でもご一緒でしたね。失礼して座らせてもらいます」と言って隣に座った。小一時間、緊張して座っていたことは言うまでもない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===