年間第11主日(マルコ4:26-34)

祈祷書の祈り、皆さんは祈祷書を開いて唱えているでしょうか。祈祷書に載っている祈りの中には、見ないで唱えている祈りもあるのではないでしょうか。わたしも、見ないで唱える祈りがあります。

たとえば、マリアさまに対する祈り「元后あわれみ深き御母」「聖母のご保護を求むる祈り」「聖マリアに身を献ぐる祈り」とか、聖体に対する祈りでは「聖体に対する聖トマの祈り」「聖体を訪い奉る時の祈り」などです。わたしは幼児洗礼なので、小学生の頃に覚えさせられ、唱えていた祈りは、やはり記憶しています。

しかしどのようにして覚えたのかと言われたら、「分からない」としか答えようがありません。きょうの福音朗読の言葉を借りれば、「夜昼、寝起きしているうちに、芽を出して成長した」そういうことなのだと思います。特別覚えるための工夫をしませんでしたが、日々の祈りの中で、自然に覚えたのです。

現在はどうでしょう。子どもたちに、聖母マリアへのお祈りで、覚えている祈りがありますかと聞いたら、「ない」と答えるかもしれません。覚えていないからどうこうということではありませんが、子どもの時代に種蒔きされた信仰が、芽を出し、茎、穂、そして穂には豊かな実ができる、そんな段階を迎えられるだろうかと心配します。

種蒔きは、どの子どもたちにも行われているのだと思います。保育所での幼い頃の体験がそうですし、小学生時代にロザリオの祈りを唱えて、それに合わせて聖母マリアに対する祈りを唱えてきました。聖マリアの連祷も、当時はすらすら唱えていたはずです。そうした種蒔きが、実を結ぶまでに至るか、蒔かれた種のままでいるかは、その後の過ごし方に何か違いがあるのではないでしょうか。

2つ、考えてみました。1つは、雨です。梅雨の時期に入り、金曜土曜日などはよく降るなぁと思うくらいに雨が降りました。わたしの実家は牛を飼っているため、雨が降ると牛のえさとなる牧草の刈り入れをすることができません。雨は困るなぁと思ったりしたものですが、きっと雨を待ち望んでいる人もいることでしょう。

この梅雨の季節に、わたしは地中の生き物はどうなっているのだろうかと思うことがあります。とくにセミです。この長雨を、セミの幼虫はどう思って過ごしているのでしょうか。セミはご存じの通り何年も地中にいて、1週間とか、2週間しか地上にいません。そのタイミングを、この雨の中、じっと待ち続けているのでしょうか。雨がしみこむ地中で、もう少ししたら地上だと、考えているのでしょうか。

この雨は、畑に蒔いた種に芽を出すチャンスを与えてくれると思います。ほんの少しの雨ではなくて、たっぷりと降った雨が、種に大きな変化を与えます。子どもに例えると、信仰の種蒔きをされて、たくさんの雨が降り注がれた時に、大きな変化を成し遂げるのです。

信仰の蒔かれた種に降り注ぐ雨とは何でしょうか。教会に集まって、また家庭の中で、繰り返し繰り返し唱えることだと思います。祈りの反復が子どもたちの中に雨となって降り注ぎ、しみこみ、やがて種の中に隠されている神秘を芽生えさせるのです。繰り返しによって十分に祈りに親しんだ子どもたちは、いつかその祈りの必要性を思い出し、自分から祈り始めるようになるのではないでしょうか。

種が実を結ぶもう1つの要素は、芽を出したあとに注がれる陽の光だと思います。十分な雨のあと、十分な陽の光が注がれて、種から芽を出した植物は立派に成長していきます。子どもたちに蒔かれた信仰の種が芽吹いたなら、十分に陽の光を当てなければなりません。

信仰の芽吹きに注がれる陽の光とは何でしょうか。わたしは、唱えている祈りの解き明かしだと思います。祈りの一つひとつの言葉が、意味のあるものとなるように照らしを与えてあげることで、子どもたちはあとで祈りをかみしめ、ただ唱えるだけでなく、願いを込めて唱えることができるようになるのです。

振り返ると、だれかがわたしに降り注ぐ雨をくださり、言葉の意味を十分に理解するための陽の光を注いでくださったので、祈りを覚え、祈りを理解して唱えることができるようになったのだと思います。けれども、それがだれなのか、はっきりとは分かりません。

両親なのか、祖父母なのか、または本家のおじさんおばさんだったのか。それらのすべてかもしれませんが、やはり突き詰めると、わたしに雨を降り注ぎ、陽の光を当ててくださったのは、父なる神なのだと思います。わたしのそばにいる人々を動かして、わたしに蒔かれた種が芽を出し、立派に実るように導いたのは、父なる神なのです。

そこで今週の学びを得ることにしましょう。父なる神の計らいで、だれかがわたしに手を貸してくださり、蒔かれた種が芽を出し、実を結んだように、わたしたちも種蒔かれた人に雨を降らせ、陽の光を当てるお手伝いをしましょう。

芽を出させ、実を実らせるのは神さまがきっと成し遂げてくださいます。わたしたちは神の働きを信じて、人々に蒔かれた信仰の種が大きな変化を始めるお手伝いをしましょう。蒔かれた種の多くが、種のまま留まるなら、神の国の成長はいつまでも望めません。神の国が夜昼寝起きするうちに成長することを、社会に対して証しすることができるよう、ミサの中でその知恵を願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼ざあざあと音を立てて雨が降っている。いよいよ梅雨だ。部屋の中で、湿気がこもりそうな場所をよく除湿しないと、梅雨あけたときにカビカビになってしまう。と頭では考えるが、いろんなものがこの時期を越えると使えなくなってしまう。管理が悪いのがすべてだが、もったいない話だ。
▼先週と今週にかけて、長崎教区の司祭たちは黙想会に参加している。今年ははっきりと、前半の黙想会と後半の黙想会という期間を設定し、ある程度参加者が分散して、黙想会も集中できるように、また小教区での対応も、ある程度他の司祭がカバーできるように、そのようなねらいで実施されている。
▼わたしは後半の部を申し込んだ。理由は説教師。今年の後半の部の説教を担当しているのは同級生の司祭である。同級生と言っても、修道会の司祭で会の中ではもう責任のある立場に立っている。翻訳者としても日本の教会レベルで貢献しているし、単なる同級生ではなく、尊敬する同級生だ。
▼後半の部には、同級生がほかにも参加するのだろうと思っていた。ところが蓋を開けると、自分しか申し込んでいなかった。後半の部が、会場を長崎市立山の黙想の家に設定しているのも起因しているのかもしれないが、後半の部の全参加者は12人である。
▼おそらく前半の部には70人以上参加しているのだろう。これでは、分散させるという目的も、より集中して黙想してもらうということも、絵に描いた餅のような気がするが、少なくとも後半の部の参加者は、両方の益が得られることになるだろう。
▼黙想会が楽しみである。いろいろ理由がある。説教が楽しみだという理由が最上位だが、ほかにも楽しみにしていることがある。ここに並べるほどの理由ではないけれども。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===