キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)

先輩の古川武信神父様がお亡くなりになりました。72歳でした。晩年は、14年間透析を続ける生活でした。最後は脳梗塞を併発して、8ヶ月十字架にはりつけにされた司祭生活でした。

透析を受け始めると、ふつうは14年も長生きしないそうです。そんな中で、先輩が示そうとしていたのは、「透析患者の司祭であっても、司祭の務めを全うできる」そういう証しでした。そして実際、司祭・修道者の召し出しを多く輩出し、療養生活に入るまでは小教区の主任司祭として働き、多くの人に愛された司祭でした。

腎臓を患うまでは、思う存分ご自分の務めを果たしておられたと思いますが、腎臓病になってからはそうもいかなかったでしょう。けれども、イエスのご計画は別のところにあったかも知れません。

金曜日に浦上教会で行われた葬儀ミサの説教の中で、古川神父さまの同級生の神父さまが、「彼はイエスに、『人類の救いのためにわたしと一緒に十字架を担ってくれ』とお願いされたのだ。彼だったから、引き受けることができたのだ」と話しておられました。そうだろうと思います。

透析を続ける生活という大きな十字架で、完全に先輩の計画は打ち砕かれただろうと思います。長い巡礼旅行は諦めなければなりませんし、コップ一杯の水をがぶ飲みすることも死に直結するのでできません。

自分の思い描いた人生が完全に打ち砕かれると、大抵の人は失望してしまいます。けれども神父さまは、そこからさらにイエスにより忠実な弟子になったのだと思います。自分の思い描いた人生を生きようとすれば、もしかしたらイエスに左と言われても、いやわたしは右に行くと言うことができるかもしれません。

けれども、完全に打ち砕かれ、それを受け入れた人にとって、イエスから左と言われた時に、迷わず左について行くのです。もしかしたらついて行くしか残されていないのかもしれませんが、それをためらわずに従えるのは、イエスの弟子として、より完成された姿ではないでしょうか。

今週、キリストの聖体の祭日を迎えています。イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱え、「取りなさい。これはわたしの体である。」(マルコ14・22)と、また杯を取り、感謝の祈りを唱えて、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(14・24)と言われました。イエスはご自分のすべてを食べ物として与えてくださいました。

食べ物はどのような性質があるのでしょうか。完全に、自らを与え尽くすという性質があります。パンとぶどう酒の形のもと、何も残さずに与え尽くすというのがその根本的な部分です。

先に亡くなった先輩司祭のことを話しましたが、司祭職に自分のすべてを与え尽くす姿は、イエスが聖体の秘跡にとどまってご自分を完全に与え尽くされたのと同じ姿だと思います。九割九分九厘与え尽くすというのではありません。何も残さず、たとえ一厘でも、一毛でも、自分のために取っておかない姿です。

それはかつての殉教者の姿にも似ています。アンチオキアの司教、聖イグナチオは、次のような言葉を残して殉教したとされています。「わたしは神の穀物であり、キリストの清いパンとして認められるために、獣の牙で粉にひかれるのです。むしろ、獣をあおって、その獣がわたしの墓になるようにしてください。獣が、わたしの体の一片でも残しませんように。」(「毎日の読書」第8巻135頁、カトリック中央協議会発行)

エスがわたしたちの食べ物となられたというのは、ご自分のために体の一片も残さず与え尽くすためでした。その与え尽くす愛が、ご聖体の中にとどまっておられます。わたしたちはこのご聖体を、どのくらいの感謝をもって受け取っているでしょうか。感謝しても感謝し尽くせないのではないでしょうか。

与え尽くす愛であるご聖体をいただいたわたしたちは、イエスによって変えてもらう必要があります。それぞれ、任せられている務めがあります。中学生高校生は学ぶ務めがあります。大人には大人としての務めがあります。その務めに、7割くらい力を注いで流れに乗っていくこともできるかもしれません。実際にそうしてきた人もいるかも知れません

ですが、わたしたちがアーメンと答えていただくものは、清い小麦からできた聖なるパンです。7割ご自身を与えたイエスがとどまっているのではないのです。そうであるなら、今の生活でもし与えることを惜しんでいるなら、イエスに変えてもらいましょう。

与え尽くす愛を、ご聖体としていただくわたしたちは、与え尽くす愛に生きる人に変えてもらうように招かれています。イエスは、打ち砕かれてイエスのものとなった一人の司祭を高めてくださいました。小麦のようにひかれてイエスのものとなった殉教者を高めてくださいました。

わたしたちも、イエスの手の中の道具として、より使い勝手の良いものとなるために、できることを考えましょう。九割九分九厘協力するけれども、あと一厘自分のものに残しておこうとする気持ちは、そんなに重要なものなのか、もう一度考えてみましょう。

与え尽くす愛のしるしを、今日ミサの中でいただき、大胆にイエスの招きに答える力を願うことにいたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼見逃すと次は105年後という「金星が太陽の前を通過する」天体ショーをこの目で見た。確かに太陽の中に、ホクロのような点が見えた。日食グラス(実際は下敷きのようなもので、定規の目盛りが入っているので定規として使用できる)をどうぞと譲ってくれた人がいたので、その人の好意に甘えて、空を覗いてみた。
▼天体ショーなど、と思っていたのだが、実際に空を見上げて、太陽の中の黒点を見た時は、「おお、見える!」と柄にもなくワクワクした。テレビのアニメコマーシャルで、「周囲の変化にまったく関心がなくなると、認知症のサインです」というのがあったが、どうやらまだ認知症は発症していないらしい。
▼写真が手に入った。どうやって撮影するのか分からないが、太陽はオレンジ色、金星は黒点で撮影されていた。こんなに立派に写るものなのだなぁととても感心した。写真に収めたことからすると、写真を譲ってくれた人も、天体ショーを見逃したくないと思った人なのだろう。105年後なんて、今生きている人の1%も存在していないのだから、99%の人の中でワクワクする人がいても不思議ではない。
▼土曜日に、「やもめの献金」という福音朗読がミサに選ばれていて、「生活費の全部を入れた」という点をイエスは高く評価していた。そこで「自分の務めを、生活(費)の全部を入れて果たしているだろうか?九分九厘ではなく、一厘も残さずすべて全力投球しているだろうか」というような話しをした。自分への戒めでもある。
▼要領のいい人は、9割で全力投球しているように感じさせることができるだろう。もしかしたら、7割でも、全力で果たしているように見せることができるかもしれない。けれども、神の前には7割である。神は、生活費のすべてを入れたやもめを高く評価した。わたしはこれまでの20年、7割しか使ってこなかったと思う。これからの20年は、わたしが望もうと望むまいと、神からすべてを投入するように、要求されるに違いない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===