洗礼者聖ヨハネの誕生(ルカ1:57-66,80)

黙想会に参加してきました。一度だけ浜串に連れてきたことのあるパウロ会の司祭で同級生の澤田神父さまが黙想の説教師を務めてくれました。マタイ福音書からおもに話しをしてくれて、マタイ福音記者が見ているように見るそのヒントをたくさんいただきました。

今週金曜日、わたしは生活習慣病検診に行ってきます。ちょうど1年前、同じ検診を受けた時はお腹周りとかコレステロール値が標準を超えていたからだと思いますが長崎の保健士から半年間保健指導を受けて厳しい食事コントロールと規則的な運動を命じられました。

あの頃はマラソン大会に向かう時期でもありましたので、80キロの体重が73キロまで落ちて、ズボンも両手が入るくらいサイズが小さくなっていました。またちょっと戻って、体重は76キロくらいなので、今年の検診もひやひやしながら受けることになります。できれば保健士のかたとは会わないで済ませたいものです。

今年は6月24日が日曜日と重なりました。洗礼者ヨハネの誕生を、教会は大切にしているので、日曜日ですが、この祝日を優先させました。洗礼者ヨハネは、イエスに先立って人々の心を神に向かわせ、救い主への準備をさせます。喜びの出来事の中で、わたしはザカリアに注目して今週の学びを得たいと思いました。

朗読された箇所には、周囲の人が驚く中で、名前をヨハネと付ける強い意思を表し、ザカリアに大きな変化が現れます。それまで話すことができなくなっていた彼が、「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」(1・64)のです。

ですがこの様子は、少し慎重に観察しなければなりません。「口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」とあるのですが、ルカ福音記者が言おうとしていることをできるだけ汲み取って考えることが大事です。日本語訳聖書では、「口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」とあるわけですが、もとの言葉に近いように訳すなら、ザカリアは「口が開かれ、舌が自由にされ、神を賛美し始めた」と書き表すのがより近い表現なのです。

もとの言葉により近い日本語に訳すと何が見えてくるのでしょうか。比べてみると分かります。「ザカリアの口が開いた」様子と、「ザカリアの口が開かれた」様子では、何かが違うはずです。「口が開いた」とは、例えばある時間になったので自然に口が開いたとか、言いたいことがまとまったのでついに話し始めることにしたとか、自分から口を開いて語り始める様子を表しています。

ところが、「口が開かれた」となると事情は違ってきます。それは、自分で口を閉じていたのではなく、だれかに話しができなくさせられていて、それが話せるようにさせてもらったという意味になります。つまり、ザカリアは神の使いのお告げを信じることができなかったので神から話しができないようにさせられていたのですが、今や神にゆるされて話しができるようになった、口が開かれたということです。

同じように、「舌がほどける」という様子と「舌が自由にされる」という様子も、比べて違いを感じる必要があります。「舌がほどける」とは、何か肉体的な障害のために舌が回らなかったのが今やっと障害がなくなったという感じですが、「舌が自由にされる」とは、だれかから舌が使えないように不自由にされていたのがゆるしが与えられて自由にされたという感じです。

つまり、本来の言葉により近いように日本語に訳すと、ルカが伝えようとしていた本来の様子が手に取るように分かってくるのです。ルカは本来、神がザカリアの口を閉ざし、舌を不自由にしていたのだけれども、今ゆるしを与えて彼の口を開き、舌を自由にし、話すことができるようにしてくださったと伝えているのです。わたしたちが現在読んでいる日本語訳では、よくよく注意しなければ、そのことが読み取れないのです。

ところで、神に口が開かれ、神に舌が自由にされたザカリアは、神を賛美し始めたとあるのですが、人間はだれでも、神にいったん口を閉ざされ、神に口を開いてもらうと、神を賛美し始めるのでしょうか。

わたしはそうは思いません。人によっては、神に不平不満を述べることもあるだろうと思います。自分の口を神が閉ざすのは道理に適っていない。口が開かれたときに神は正しくないと、ザカリアが不満を漏らすことも十分あり得たはずです。

なぜザカリアは、神を賛美し始めたのでしょうか。ザカリアは、すべての出来事が神の手の中にあることをはっきり知ったから、神を賛美し始めたのだと思います。神の前に非の打ち所のない生活をしていたけれども、長い間自分たちに子どもが与えられなかったこと。子どもが授かると知らされて信じることができなかったときに話せなくさせられたこと。これらはわたしに責任はないではないか。そんなことを少し思っていたのかもしれません。

けれどもザカリアは、口を開かれたときにすべてを理解しました。出来事は神の手の中にあり、一つひとつの出来事を神に感謝し、神を賛美すべきであると。出来事に不満を持つ権利はどこにもないことを。そこで、ザカリアは神を賛美し始めたのです。

ザカリアに起こったことはすべての人へのしるしです。わたしたちは何か出来事が起こったとき、ある場合は不満を持つことになります。自分に都合の悪いこと、避けたいことが起こると、どうしても受け入れられないからです。けれども出来事は神によって起こされていると考えたらどうでしょうか。神が一つひとつの出来事を起こしておられる。そこには神の思いがあり、神の思いに気付いたとき、わたしたちはあらゆる出来事を神に感謝できるようになるのではないでしょうか。

洗礼者ヨハネの誕生は、すべてが神の手の中で起こっていることを考えさせる出来事です。もっとわたしたちが、出来事が神の手の中で起こっていると考えられるようになるよう願いましょう。そうすると、文句の一つも言いたかったことにも、感謝できるようになると思います。すべてに感謝、すべてを賛美できる人になれるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会に参加してきた。長崎市立山にあるイエズス会の黙想の家が会場だった。文字通り山の上だったので、夕食の時の長崎の夜景は別世界だった。そんな場所でテレビもなく、小さな机とベッドだけの部屋に寝起きしながら、ひたすら聖書のみことばに耳を傾けた。
▼同級生の司祭が説教師を務めていたのだが、同級生のわたしがいたので、さぞやりづらかっただろう。先輩であれ後輩であれ、学年が違えばまた気持ちも違うだろうが、同級生だけはやはり意識したのではないだろうか。
▼彼の指導のもとに、おもにマタイ福音書を読み続けた。わたしたちにとって電気と水は大切で、その中でも電気は止めても水は止めないほど、水は大切なわけだが、パレスチナでその水に当たるのが「ぶどう酒」なのだと聞いたとき、「ぶどう園と農夫のたとえ」とか、「ぶどう園の労働者のたとえ」とか、もっと真に迫って読み進めることができた。
▼また、黙想指導を依頼されるときのことを考えた。彼が示してくれた態度は、自分が黙想指導をするときのお手本として受け止めたい。技巧に走らず、大切な点をしっかり掘り下げる。それが黙想指導者の本来あるべき姿だと、言葉ではなく態度で教えてくれた。
▼テレビもラジオもない生活だったが、物足りなさは感じなかった。さすがにネットを繋げないのは忍びなかったのでちらほらネットをつないでメールチェックはしたが、畑に隠された宝を見つけて大喜びする商人のように、黙想の家で豊かな生活を味わうことができた。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===