三位一体の主日(マタイ28:16-20)

わたしたちは、何かを知るとき、2通りの形があると思います。1つは、知ったものを、自分のものにする場合です。わたしは福岡の大神学院に行って、はじめて硬式テニスを知り、たくさんの時間を練習に費やして、硬式テニスができるようになりました。プロ級の腕前ではありませんが、左利きであることもあって、まぁそこそこの腕前になりました。

もう1つの知り方は、知ることができたけれども、自分のものにしていない場合です。わたしは教会でオルガンが弾けたらどんなにいいだろうと思って、何度も練習し始めました。けれどもそのたびに挫折して、習得することができませんでした。10回挑戦して、10回挫折しました。

途中では手取り足取り教えてくれた人もいたし、練習のための本を80冊以上買いましたが、それも今は本棚の中で眠っています。何かが弾けるようになったこともあったのですが、一曲弾けるようになったからといっても、それは完全に丸暗記して弾けるようになったのであって、鍵盤を覚えたわけではありませんでした。

何かを知って、自分のものになった場合は、かなりの確率でずっと知識として保ち続けますが、自分のものにならないものは、どれだけ知っていても、常にその対象を知り続けようと努力しなければ、いつかは知っているつもりになってしまいます。

結婚している夫婦を例に挙げましょう。結婚する人は、お互いを知り合い、他のだれよりも相手をよく知る間柄になります。けれども、ある時点で相手を十分知っているからもう知らなくてもよいと考えるようになると、次第に知らないことが出て来て、知っているつもりになってしまい、お互いに溝ができることになります。

今週お祝いしている三位一体の神さまについても、わたしたちはまったく知ることができないわけではなく、ある程度知ることができます。けれども、それはあくまでも自分のものにはならない知識として、知ることができるということです。どこまで知っても、自分の持ち物にはならないのです。

まず、三位一体の神さまについて、わたしたちはどれくらい知ることができるのでしょうか。本質として唯一である神の内に、父と子と聖霊がおられること。これはわたしたち皆が、学ぶことのできる知識です。そして、救いの歴史の中で、神である御子が父なる神によって遣わされて人となり、神の愛を示し、神と人類とを一致させてくださったこと。御父と御子が神である聖霊を遣わし、一人ひとりの人間を神の命に入れてくださること。ここまではわたしたちも知ることができます。参考として、「カトリック教会のカテキズム要約」を紹介しておきます。

ところが、三位一体の神についての知識は、残念ながらと言いましょうか、自分のものにはならない知識です。いったんその神秘の内容を知ったとしても、それ以後も常に学び続け、知り続けようとしなければ、いつかは知っているつもりが知らない人になってしまう危険があります。

そこで三位一体の神についてわたしたちに必要なことは、常に知っている内容を新しくしていくということです。そのためには、三位一体の神の交わりにいつも招かれて、神との親しさを保ち続ける必要があります。

神との親しさを保ち続けるためには、どのようにしたらよいのでしょうか。それには、父と子と聖霊がどのように完全な一体性を保っておられるかを知ることが近道です。そのいちばんの特徴は父と子と聖霊は、お互いを完全に与え合うことで一つになっておられるということです。御父は、御子にすべてを与え、御子はそのすべてを御父にお返しになります。その完全に与え合う愛が、聖霊です。

もしわたしたちが、自分を与えるべき相手に、できる限り、完全に近い形で与えるように努力するなら、わたしたちは日々、三位一体の神に似た生活を実行していることになります。自分を完全に与えられなくても、これ以上ないほど与えようと努力するなら、わたしたちは父と子と聖霊に倣う生き方をしているのです。

ところで、自分を与え尽くす生き方を、毎日続けるとしても、与え尽くす力を自分の持ち物にすることはできません。今日与え尽くすことを放棄すれば、その時点で与え尽くさない人になってしまうからです。この、与え尽くす姿は、毎日、毎瞬間続けることで維持できるものです。続けることだけが、与え尽くすという姿を維持するただ一つの道です。

そして、与え尽くす姿を毎日、毎瞬間続けて、維持していく時、わたしたちは三位一体の神が与え尽くす神であることをよく学び、学んだことを常に新しく保つことができます。こうしてわたしたちは、三位一体の姿を、いつも新しい状態で身近に感じることができるのです。

父と子と聖霊の三位の神が唯一であることを、わたしたちがいつも親しく感じることができるように、自分を与えるべき相手に、いつも全力で与え合うことにしましょう。夫と妻の間で、親と子どもの間で、兄弟姉妹の間で。与え尽くす生き方を全うして、三位一体の神の一体性にいつも近くいることができるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼いつだったか、「説教を考える時、聖堂に行かないのですか?」と聞かれたことがある。わたしは思っていることを素直に答えた。「机で、うーんと唸って考えないと、出てこないねぇ。」質問した人をとてもガッカリさせる返事をしてしまったが、実際聖堂に行って黙想して、説教を準備していないのでそうとしか答えようがなかった。
▼もちろん聖堂で祈ることでヒントが湧くことは山ほどある。ご聖体のイエスが照らしを与えてくれることは数え切れない。ただわたしが返事をしたのは、「毎週、説教を準備するのは聖堂で、ですか?」という質問に対しては、「聖堂ではないなぁ。ほとんど机のパソコンの前でだなぁ。」としか答えようがないということである。
▼机の上はいつも散らかっていて、机の面はどこにも見えないけれども、わたしはここで、パソコンをにらみながら、イエスと向き合っている。ほとんどの音を遮断して、イエスが何かを語ってくれないか、何かヒントをくださらないか、じっと腕を組んで待っている。それは聖堂で同じことをしてもよいのかもしれないが、現実は違うことをしている。
▼けれども、もしかしたら、変えてみれば変わるのかもしれない。つまり、自分のスタイルはこれだと決めているけれども、自分で勝手に決めているだけで、変えられるのかも知れない。もっと言うと、もうこれ以上働けないと思うほど働いているつもりだが、ぜんぜん働き方が足りないかもしれない。与え尽くすと説教で言ったが、与え尽くしていないかもしれない。
▼たいてい、イエスのために何かを成し遂げた人は、徹底的にへりくだることを求められる。それがあって初めて、イエスの道具になれる。ペトロ、パウロがその典型だろう。もし、もしもわたしがイエスの小道具として必要であれば、必ず砕かれて、へりくだり、すべてを失って、それから始まるのだと思う。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===