神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)

先週火曜日、性懲りも無く定置網の舟に乗せてもらい、沖合での作業を見学させてもらいました。この日はカメラをもっていって、お父さんたちの作業の様子をいろいろ写真に納めてきました。調子に乗って写真を撮っていたら、途中で「神父さん、ちょっと、どいてくれ」と言われ、あちゃーと思った場面もありました。

この時はカッパは着ていったのですが、手袋をせずに行きまして、結局新品の軍手を貸してもらい、ちょっとだけ手伝いをしました。獲れた魚の中から、アジを選り分ける作業です。わたしもさすがに、アジなら見分けが付くので、喜んで手伝いました。

戻ってきてからは、すべての魚を種類別、大きさ別に選別する作業が始まりました。アジの選別が終わってから、今度はイカの選別も手伝ってみたのですが、このイカは発泡スチロールに入れるのかなと思って選んでみると、お父さんにはねられ、ではこれではどうだと選んでも、またはねられ、なかなか力になれませんでした。

最後は、発泡スチロールに入れないイカ、いちばん小さいイカを選ぶ手伝いを命じられました。これならわたしにもできると思って、手伝っていたのですが、「神父さん、これはマツイカ。」そう言われて、この作業でもわたしが選んだものがはねられました。なかなか、選別作業も難しいです。邪魔ばかりしていたのですが、ただで魚をもらって帰りました。今月は長崎に行く用事が何回かあるので、もう乗れないかもしれません。

さて今週は、前教皇ヨハネ・パウロ2世が「神のいつくしみの主日」と命名された復活節第2主日です。わたしたちに対する神のいつくしみを、朗読を通して読み取りたいと思います。

エスの復活後、弟子たちはその事実を何度か聞かされながら、まだ恐れのために尻込みして家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。時間は夕方です。「その日、すなわち週の初めの日の夕方」(20・19)とあります。

朝、まだ暗いうちに、マグダラのマリアが墓に向かい、出来事をシモン・ペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子のところに知らせに来ています。何かが起こったことをすでに知っていたのです。けれども弟子たちは、その日の夕方になっても、恐れに囚われていました。

エスは弟子たちの恐れを取り除こうと、家の中に閉じこもっている彼らの真ん中に立ちました。「あなたがたに平和があるように」と言われました。言葉で、恐れを取り除こうとします。手とわき腹とをお見せになりました。行動で、恐れを取り除こうとします。いろいろな手段を尽くして、弟子たちの心の中にある恐れを、取り除こうとされたのです。

そして最後に、彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(20・22-23)最後には聖霊の息吹によって、いっさいの恐れから弟子たちを自由にしたのです。

ところで、トマスはその場に居合わせませんでした。恐れのため、家の戸に鍵をかけていた弟子たちとは別の場所にいたことになります。もしかしたらトマスは、ほかの弟子たちのような恐怖心はなかったのかも知れません。彼は恐れには捉えられてなかったかもしれませんが、別のものによって不自由にされていました。

「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」これは、トマスの利己心の表れです。イエスが復活したことは、弟子たちの証言「わたしたちは主を見た」という証言で十分です。それなのに、トマスは利己心に駆られ、イエスからの特別な扱いを要求したのです。

エスはトマスの利己心に縛られた心も解き放ってくださいます。わたしたちを不自由にしている最後の砦もまた、利己心かもしれません。こうしてイエスは、すべての人が、復活したイエスによって喜びに満たされるように、縛られている心を自由にしてくださいます。

神のいつくしみはここに最高の形で現れます。神は、わたしたちが復活したイエスに出会って喜びに満たされるように、あらゆる手を尽くしてくださいました。トマスの身勝手な要求にも応えてくださいました。

今わたしたちは、神のいつくしみを感じているでしょうか。復活したイエスは、わたしたちの望みにどこまでも手を尽くしてくださる方だと思えるでしょうか。わたしたちの教会に必要な支えを、いつでも与えてくださる心の広い方だと、理解しているでしょうか。

今週、神のいつくしみ深さに信頼して生きる恵みを願いましょう。トマスの要求にも、十分に応えてくださったイエスは、今もわたしたちの願いに応えてくださいます。信頼をもって、新たな一週間に入ることにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼聖土曜日、復活徹夜祭に入る日の朝。メルマガ「復活の主日号」に使う写真素材を求めて、浜串漁港を散歩していた。ふだんも朝は散歩などしないし、聖土曜日は朝のミサがないため、本当は朝寝坊しても構わないのだが、朝7時に散歩しているといろんな景色が新鮮に見えた。
▼犬の散歩をしている人。用事で近所の家を訪ねている人。水産会社の事務所に朝一番で出勤してくる人。あー、それぞれの朝の光景なのだなぁと思って、あいさつを交わしたり、ただ眺めて通り過ぎたりして、だんだんと漁船に近づいていった。
▼いよいよお目当ての旋網(まきあみ)漁船が視界に入ってきた。最初は船だけを撮影していたが、船だけだと面白くないし、しかも船だけを撮ろうとすると東を向くことになり、やけに太陽がまぶしい。そこで遠回りして、浜串の集落を背景に、漁船をとらえようと考えた。イメージとしては、「旋網漁船とそれを支える家族」というような光景である。
▼船をいったん通り過ぎ、振り向いて、浜串の集落が背景に収まるよう向き直った時だ。積み荷である網が陸上に広げられていて、その中に網を繕っているお父さんたちが4、5人いたのである。まず、ギョッとした。向き直ってそこに人が見えるということは、いったん隣を通り過ぎているということだ。
▼わたしはまったく気付かずに、網を繕う人々の横を通ったことになる。ふつうに考えれば、作業をしている大人が5人もいる場所であれば、それに気付きそうなものだ。ところがわたしはまったく気付かずに、素通りしたのである。
▼作業をしていた人たちは、わたしに気付いただろうか。彼らは気付いただろう。だが黙々と作業をしていて、無駄な会話はしたくなかったのだと思う。そこに人がいたことに新鮮な驚きを感じながら、迷惑にならない距離でお父さんたちの作業をカメラに納めた。
▼復活後、イエスは漁に行こうとしていた弟子たちに声をかけた。もしかしたら、船を湖に浮かべる時から、イエスは水辺に立っていたのかもしれない。弟子たちはイエスにまったく気付かず、舟を沖に出し、漁に取りかかり、漁は徒労に終わった。そんな時、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」(ヨハネ21・6)と声をかけられたのではないだろうか。
▼考え事をしていたり、別のことに意識が集中していると、目の前にいる人、目の前で繰り広げられている大事な出来事さえも見落としてしまうのだろう。黙って網を繕っているお父さんたちが、わたしに「おはよう。調子はどうだい?」と声をかけてくれるイエスのように見えた。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===