復活節第3主日(ルカ24:35-48)

浜串小教区に来て3年目に入りますが、司祭が授ける秘跡の中で、ゆるしの秘跡と病者の塗油はまあふつうに授けましたが、洗礼は2人だけ、結婚にいたってはまだ1組も扱っていません。○○さん○○さん、もう一回結婚してくれませんかと内心言いたいくらいです。

それはひとまず横に置いたとしても、洗礼を2人しか授けていないというのは、司祭として恥ずかしい限りです。わたしの努力も足りないわけですが、わたしが「洗礼受けませんか」と上から目線で誘うよりも、皆さんが、誰か洗礼を受けてくれそうな人を連れてきてください。

良い方法を教えます。誰か知り合いに、洗礼をまだ受けていない人、洗礼を受けたほうがいいなぁという人がこの上五島のどこかにいるとします。その人に働きかけましょう。ただし、「あなた洗礼を受けてみない?」と声をかけるだけではなかなか成功しないと思います。そこで、こう切り出すことをお勧めします。「わたしも神父さまのところで一緒に勉強するから、洗礼受けてみない?」こんなふうにお誘いしてください。

洗礼を勧めたい人がそこにいても、その人が1人で司祭館の敷居をまたぐのは至難のわざだと思います。本来は、そんなに司祭館の敷居が高くてはいけないのですが、実際には1人で訪ねるのは相当勇気が要るでしょう。そこで、まぁ半年から1年、勧めてくれるあなたも、週1回のペースで一緒に勉強してみてはいかがでしょうか。

昔は、洗礼を受ける人が責任もって自分で司祭のもとに行って、洗礼の準備を始めていただろうと思います。ですが今は、そんなこと言っていてはチャンスを逸してしまうことになります。

一緒に勉強すれば、誘ってくれる人も必ずためになるのですから、どうかこの方法で今年のクリスマスか、来年の復活祭までに、洗礼志願者が与えられることを願っています。近所だから、一緒に洗礼の準備に付き合う、この人をよく知っているから、一緒に準備についていく。そうやって、半年から1年、一緒に時間を費やしてくれる人を期待します。

さて今週の福音朗読は、マグダラのマリアに起こった出来事、さらにエマオに向かう弟子たちに起こった出来事の後に続く物語です。復活したイエスは集まった弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちが亡霊を見ているのだと思い、なかなか信じられないでいるので、イエスはその場で焼いた魚を食べました。

もちろん、魚を食べることが復活したイエスの果たそうとしていた目的ではありません。イエスが本当にしようとしていたことから、今週の学びを得たいと思います。それは、「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた」(24・45-46)という場面です。

エスが集まっていた弟子たちに果たしたかったこと。それは、「聖書を悟らせる」ということでした。そして聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いたり、聖書に書かれている中心的な教えを語り掛けたのです。

「聖書を悟らせる」聖書が大事なことは、わたしたちは言われなくても分かっています。けれども、言われなくても分かっているのに、聖書を大事にしているかと聞かれたら、「大事にしている」と答えられない生活をしています。

残念なことですが、今日を生きるのに、聖書を大事にしていないからです。自分と家族、職場や滞在先などの自分が属している場所で、聖書を大事にしていないからです。それはわたしに責任がありますが、どう大切にすればよいのか、これまで聞いたことも考えたこともないのです。

そこで、イエスは「聖書を悟らせるために心の目を開いて」くださいます。かつて弟子たちの心の目を開いてくださったイエスは、今わたしたちの心の目を開いてくださいます。

どのように聖書を大切にすればよいのか。身近に触れた聖書の朗読箇所を、生活の中で思い出してみたらよいと思います。例えば今週の福音朗読でイエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。

今もイエスは、わたしたちの家庭に、わたしたちの職場に、わたしたちが今いる場所に、「平和があるように」と言ってくださるに違いない。そう信じて生活するなら、わたしたちは生活の中で聖書を大切にしていることになります。わたしたちに届けられた聖書のみことばを、生活に結び付けるために、イエスは今もわたしたちの心の目を開いてくださるのです。

今日、復活したイエスは弟子たちに、「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(24・46-48)そう仰いました。この箇所も、わたしたちが心の目を開いてもらえば、生活と結び付けることができます。

つまり、説教の最初に触れましたが、まだいろんな事情やいきさつがあって、カトリックの洗礼を受けていない人を誘って、「一緒に勉強付き合うから、洗礼を受けてみない?」と声をかけること。これは、具体的な生活の中でイエスの証人となる行動です。イエスが弟子たちに命じたことばそのものではなくても、あなたにできる福音宣教の第一歩です。

わたしたちが復活したイエスに心の目を開いてもらうなら、きっと聖書を悟ることができます。わたしたちが手にとって読むことのできる聖書は、ユダヤの国の遠い昔の物語ではなく、今わたしたちの間で繰り広げられている神の働きを教えてくれるのです。

わたしたちが聖書を悟り、聖書は復活したイエスが今わたしたちの間で働いていることを教えるものだと証しできますように。そのためにイエスがわたしたちの心の目を開き、わたしたちに行動する勇気を与えてくださいますように。ミサの中で願い求めましょう。

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ちょっとひとやすみ
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長崎市の旧市営陸上競技場は、現在公園のようになっているが、トラックは今も残っていて、多くのランナーが集まる場所になっている。わたしも、ひさしぶりにトラックを、何と15周も走ってしまった。「年齢を考えろよ」と同級生に言われることがあるが、今回もその声が聞こえそうだ。
▼夕方4時半にグランドに到着。テキトーに準備体操をして、ぼつぼつ走り始める。この時点ではほとんどトラックを走る人はいなかったため、5周、7周と周回を重ねていくと、わたしのランニングシューズの跡が土にくっきり残っているのが分かる。何だか嬉しかった。
▼5時になると、高校の陸上部が大挙して押し寄せ、「いち、に、さん、し。ごー、ろく、しち、はち」とかけ声掛けながらのストレッチが始まる。陸上部のストレッチを見ただけでも、わたしの準備体操がまったくなっていないことがよく分かる。
▼入念に、わたしが費やした時間のゆうに3倍の時間を掛けてストレッチをした後、おもむろにトラックの周回が始まる。わたしの亀のような走りはあっという間に追いつかれ、「失礼しまーす」と言いながら右側から20人くらいの集団が抜き去っていった。
▼何度も何度も抜き去られたが、あまりにもレベルが違うので悔しさなど湧いてこない。男子の陸上部からも周回遅れにされたが、後では女子の陸上部からも周回遅れにされた。女子がわたしを抜き去っていった時、女子の香りがしたと言ったら変態だろうか。
▼グランドを走るといつも刺激を受ける。陸上部もそうだが、自分のペースを守って歩いたり走ったりしているすべての年齢層の人、それぞれの目的のために周回している人に刺激を受ける。そんな人々に囲まれて、15周6キロのロードワークを楽しんできた。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===