復活徹夜祭(マルコ16:1-7)

主のご復活、おめでとうございます。今年の復活の喜びを黙想するために、真っ先にイエスのご遺体が納められた墓に行った女性たちの言葉を選びたいと思います。「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」(16・3)この言葉です。

彼女たちがこのようなことを考えていたのは、もちろんイエスのご遺体に香料を塗るお世話をするためでした。イエスさまの復活を理解しての行動ではありませんでした。けれども、彼女たちの言葉は確実に、イエスのために次に何かしようという気持ちに満ちあふれていました。

彼女たちにとって、墓に埋葬されているイエスに次にすることは、香料を塗ることでしたから、そのことに心が向かっていたのです。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」この言葉は象徴的に、イエスのために次に何かをしようと考えた人の言葉だったのです。

この言葉を発した女性たちに、神の使いが現れ、別の使命を与えます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(16・7)

神の使いが彼女たちに新しい使命を与えました。墓に泣きに来た女性たちに次の使命を与えたのではありません。墓に、イエスのために次に何ができるかを考えてやって来た女性たちに、新しい使命を与えたのです。

この事実は、わたしたちにも考えさせます。イエスが死んで、復活しました。この場面で、次に何をしようかと考えている人には、復活したイエスが新しい使命を用意してくださるのです。反対に、イエスが死んで復活したのに、下を向いて泣いている人たちには、次に向かう使命を受け損なってしまいます。

わたしたちの教会に当てはめてみましょう。わたしたちの教会も、何かが死んで、何かが復活しようとしている時期だと思います。この時期に、「次に何ができるだろうか。次にこういうことができるのではないだろうか」と考える人には、復活したイエスは照らしを与えて次の使命へと向かわせると思います。

ところが、「あれもできなくなった、これもやむなく廃止となった。廃れていく一方だ」と、下を向いているだけでは、イエスの照らしにも気付かず、次の使命も取り逃がしてしまうのではないでしょうか。

ここでわたしたちは考える必要があります。わたしは今、この教会のために、次に何ができるか考えているだろうか。小学生として、中学生高校生として、社会人として、大きいことか小さいことかは関係ありません。次に何かしようというその気持ちが大切です。それさえあれば、復活したイエスが本当に必要な次の使命を、与えて派遣してくださると思うのです。

次に必要になってくること。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」そう考える人がもっとたくさん増えて、この教会に新しい力となってくださることを期待します。

この教会のためだけでなく、上五島地区や、長崎教区のため、次に何が必要だろうか、何ができるだろうかと考える。そんな考え方の人を、今復活したイエスは捜し求めています。そして、次の行動を起こす人の力が集まって、望まれる浜串小教区、望まれる長崎教区の神の民となっていくことができるように、復活の主に願うことにいたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼聖香油のミサに出向いたとき、海上は大時化だったと話したが、明けた聖香油ミサ当日は、さらに天候が悪化し、暴風になった。長崎本土で朝を迎えたが、土砂降りの雨。サッシを揺らすほどの強い風。これではさすがに、当日船に乗って聖香油のミサに参加しようと思った人たちは足止めを食うだろう。
▼案の定、すべての船会社が早々に欠航のお知らせを出してきた。大時化の日に船に乗ると、身近にいのちの危険を感じる。飛行機は上空1万メートルを飛んでいるから、危ないのは危ないけれどもたいていの場合は眠ることが可能だ。
▼電車にしてもバスにしても、事故が起こらないとは言えないが、目的地まで眠ったままでも時間を過ごせる。ところが、海上が3メートルの波の日に船に乗れば、ぐっすり眠れる人は誰もいないと思う。実際の船の揺れを半分に見積もっても、波が3メートルの日は、体が1メートル50センチ上下することになる。
▼それを80分も90分も、場合によっては2時間以上辛抱しなければならない。中学のときから神学院に入学して司祭を目指す神学生は、だから辛抱強くなるのだと思う。この苦労を買ってでも、司祭になろうと頑張っているのだから、日常生活で少々のことがあっても心は折れない。ホームシックに仮にかかっても、帰る家は80キロ海の向こうなのだから。
五島列島から進学・就職で本土に渡る人も同じことだ。どんな思いで海を渡って本土で苦労しているか。だから、ある時期その人たちが教会のことがなおざりになり、背を向けたとしても、彼らは必ず復活するのである。
▼いろんな苦労を本土でするかも知れないが、その苦労がいつか、五島の生活を振り返ることになり、信仰を守る気持ちにもう一度意義とか価値を見いだすのだから。五島のカトリック信者が「やっぱり信仰は大切だ」と復活するための3日間は人によってさまざまだろうが、必ず3日目はやって来ると信じている。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===