四旬節第3主日(ヨハネ2:13-25)

いよいよ黙想会の週となりました。今年は聖パウロについて少しでも学びがあるようにと思って準備しています。今週のミサの説教も、先週のように聖パウロの歩みと、与えられた福音朗読が示すものを結び付けながら話を進めたいと思います。

エスは神殿で羊や鳩といったささげものの動物を売り買いしている商人や両替商の人々を前に、圧倒的な存在を見せつけます。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(2・16)その迫力は、多くの人を黙らせるに十分でした。

エスがこの場面で考えさせようとしたことは何だったのでしょうか。神殿を神聖なものとするために、いけにえの動物を売り買いするというこの世の習慣を完全に締め出すことだったのでしょうか。そういう面もあったでしょうが、それだけでもなさそうです。

エスが「このような物はここから運び出せ。」と言われた時の様子を想像してみました。動物の鳴き声、動物を売りさばこうと必死に声をかける人の声、そんな中でイエスが声を上げたのですから、おそらく大声を上げたに違いありません。イエスは、どのような時に大声を上げるのでしょうか。

福音書を眺めると、大声を上げる場面がいくつか見られます。使い方が2つあると思います。1つは、十字架の上で父である神を呼び求める時です。ルカ福音書に次のような場面が残されています。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」(ルカ23・46)これはおそらく、ご自分のためというより、その場に居合わせた人々のために、大声で父なる神を呼び求めている姿です。

もう1つは、「聞く耳のある者は聞きなさい。」(ルカ8・8)と呼びかける時です。ヨハネ福音書で群衆に「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(ヨハネ7・37)と言う場面と、ラザロに「ラザロ、出て来なさい」(同11・43)と大声で叫ばれたのも、同じような使い方です。呼びかけている人に信仰を求めています。

一方、わたしたちが大声を上げるのはどんなときでしょうか。皆、同じことを考えると思います。それは、怒りをあらわにする時です。その人の抑えられない感情が爆発して、大きな声を出すことがあります。

福音書の中での使い方を見る限り、怒りを表すためにイエスが大声を出すという場面は見られません。ということは、今日神殿で商売をしている人に向かって大声を上げたのは、怒りをあらわにするためではなさそうです。

「このような物はここから運び出せ。」イエスが大声を上げてまで示そうとしたのは何だったのでしょう。この点が今週の福音を学ぶための鍵になるのではないでしょうか。

わたしは、この場面でもイエスがご自分への信仰心を呼び覚ますために大声を上げたのではないかなと思っています。いけにえの動物を神殿から追い出すことで、いけにえに頼らない神殿がここに今存在していることを知らせようとしたのではないでしょうか。

エスは、いけにえに頼らない神殿、いけにえに頼らない礼拝を目の前に示そうとしたわけですが、それは建物としての神殿の改革を意味しているのでしょうか。これからこの神殿は、イエスご自身がいけにえとなるのだから、動物のいけにえは必要ない。そのようなことを言おうとしたのでしょうか。

もう少し踏み込んで考える必要があると思います。ユダヤ人とイエスとのやり取りがそのことを暗示しています。「ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言った。イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」(2・18-21)

ユダヤ人との問答の中で、神殿は最後にはイエスご自身の体として示されています。神殿の中にいるイエスを見るのではなく、イエスそのものを神殿として見るように人々を促していったのです。イエスの中に神殿を見るように、そのための信仰を、イエスは大声を出すことで求めておられたのです。

パウロも、信仰の理解の中で似たような体験をしています。パウロは、イエスに出会い、使徒として大きな足跡を残しました。パウロの働きは、キリストのみ国のための働きですが、彼の考えはキリストのみ国をキリストご自身と同一ととらえるところまで深まっていきました。

パウロにとって本質的なことはキリストである。この悟りに彼は到達したのです。それは、神殿(今のわたしたちの聖堂)にイエスがおられるというわたしたちの通常の考えから、イエスこそが神殿(聖堂)であるという考えにわたしたちを導くのです。

「このような物はここから運び出せ。」イエスのこの言葉は、すべてをイエスに秩序づけるようにとの呼びかけです。わたしたちに純粋な信仰を呼び起こす大声です。道具がなければ礼拝ができないとか、聖堂という建物に入らなければ礼拝ができないというのではなく、イエスそのものが神殿だから、わたしたちはイエスに結ばれている限りどこでも礼拝をすることができるのです。

今日の学びを生活に結び付けましょう。すべてを、イエスに秩序づけることが、1人1人に求められています。食べることを、イエスに秩序づけるためにどうしたらよいのでしょうか。イエスはパンを取り、賛美をささげ、それをさいて人々に与えました。わたしたちもパンを手に取ったなら、賛美をささげ、自分のためと、人々のためにさくべきです。

一日の終わりに床に就きます。この休みを取ることを、どのようにイエスに秩序づけるのでしょうか。イエスは朝、1人静かな場所に行って祈りました。体の疲れを取ることができて、また新しい1日が与えられた。そこでイエスのように父なる神に祈りましょう。

すべてが、イエスに秩序づけられ、最高の意味を持つ働きになります。お金とか、名誉とか、結び付けるのに魅力的なものはたくさんあるかも知れません。それらも一時的には価値を与えてくれるかも知れません。けれども、さらにそれにまさってすばらしいのは、イエスに秩序づけられた活動です。いっさいを外に運び出し、それから1つ1つのものをイエスに秩序づけ、最高に価値ある人生を送ることにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼呼んでもいないのに3月12日で43歳になってしまった。「40歳かぁ・・・早いなぁ」と言っていたのは3年前のことになる。43歳でどうこうという思いはないので、とっとと50歳になればいいのになんて思うのは感謝が足りないのだろうか。
▼今週のもう1つのネタ。前日の11日に中学3年生のカトリック信者の子と長崎側の船の待合所で偶然出くわした。平日でもあったし、「おー、学校サボりか。それとも病院か?」と尋ねたら「たった今、公立高校の受験が終わったところです」と言っていた。あーそう言えば、「工業高校に合格したら逆立ちしてやるよ」と言ったんだったと思い出し、「試験の感触はどうだった?受かったか?」とストレートに聞いてみた。
▼ためらった後、「うーん、ビミョーですね。」と言う。「だったら合格してないな」と内心は思ったのだが、それを言ったらおもしろくないので、「何がいちばん難しかったか?」と聞いたら「国語です」と言う。
▼当てが外れた。彼は英語が苦手のはずである。「お前、日本人だろ〜。国語が難しいはずないじゃないか」と冷やかすと、すぐとなりに座っていた青年が「ふふふ」と笑った。あとで考えるとこの青年は担任の先生だったのだが、わたしはそうとは知らず、話をおもしろくしたいがために、さらに質問を続けた。
▼聞こえるようにわざと、「ちゃんと名前書いただろうなぁ。名無しじゃ、合格するものも合格しないぞ。」すると中学生は「受験番号を書いて、名前は書かない決まりになってるんですよ。神父さま知らないんですね〜。」公平を保つためなのだろうか。そこでわたしはオチを付けた。「いちおう書けばいいじゃないか。せっかく『麻生』という立派な姓をもらっているのだから。ついでに、『わたしは総理の孫です。よろしくね』と書けばよかったのに。」
▼ここで中学生のとなりに座っていた青年がついに爆笑した。さっきから話に食いついてくるなぁとは思っていた。ただものではない何かを感じ、中学生を脇へ引っ張って、「となりはだれだ?」と聞いたら担任だと言う。早く言ってくれよ。それならあんな冗談は言わなかったのに。それはいいが、公立高校の合格発表は3月18日。15日の日曜日にはまだ分かってないが、今のうちに腕立て伏せをして、逆立ちができるように準備でもしておくか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===