四旬節第2主日(マルコ9:2-10)

四旬節の第2週は、イエスの姿が変わる場面です。「変容」と言ったりします。今年は、黙想会をわたしがしようと計画していますが、イエスの変容の場面を、黙想会で学ぼうとしている聖パウロの回心と重ねて考えてみたいと思います。

エスの姿が弟子たちの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」(9・2-3)とあります。この出来事は何かを言い表そうとしているのでしょう。まずはこのイエスの姿が変わったことを考えることから始めましょう。

考えるヒントとして、次の表現に注目しました。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」イエスの姿は、この世のものでは表現できないというのです。それは言い換えれば、天の世界に属する姿になったということでしょう。イエスの、地上とのつながりとは全く違う面を、弟子たちはかいま見たのでした。

ここでペトロが次のような提案をします。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(9・5)今目の前に広がっている光景は、天の世界とつながっている光景です。それをペトロは、地上につなぎ止めようとしてあくせくもがいたのでした。

もちろんペトロの試みは失敗に終わり、光り輝く姿も見ることができなくなって、イエスと弟子たちだけが残ります。天の世界につながる一瞬を見た弟子たち。そしてこの出来事を地上につなぎ止めようと試みて失敗しています。実はこの時こそ、発想を変えて、どうやったら自分たちも天の世界につながることができるだろうかと思いを巡らすチャンスでした。

エスが天上の世界とつながっているのだと感じた輝かしい姿に、エリヤとモーセが現れています。この2人も、何かを象徴しているはずです。エリヤは、「苦しむ僕」として描かれる預言者です。また、モーセは、自分には重すぎると感じたイスラエルの民をエジプトから約束の地に連れて行く人物です。一方は、苦しむ僕を表し、もう一方は、使命に忠実な僕の姿が込められているのでしょう。

エスは、この2人の人物を通して、ご自身が苦しむ僕であり、父である神の使命に忠実であるという両方の面を示してもらっています。そうであるなら、弟子たちが天上の世界につながる道は、苦しみを通っていくこと、与えられた使命に忠実であること、突き詰めれば、イエスに倣うことが必要なのでした。

それを証明するかのように、雲の中から声が聞こえます。これはわたしの愛する子。これに聞け。」(9・7)イエスに聞き従うこと。イエスに倣い、苦しみを通って使命に忠実であるなら、弟子たちは天上の世界につながることができるのです。

弟子たちに求められていることは時代と場所を変えても当てはまります。つまりわたしたちも、地上にいながら、天上の世界につながることができるのです。それは、イエスの生涯に倣うことによってです。イエスが歩まれる、苦しみを担うことと使命への忠実をわたしたちが生活の中で担っていくなら、弱さの中にあるわたしたちも、天の国に結ばれるのです。

ここでほんの少しですが、パウロの例を紹介しておきましょう。黙想会の内容とも重なってくるので本当に少しだけにとどめますが、例えばパウロの決してくじけない態度は、イエスの生きざまを写し取っています。パウロは回心を経て、すぐに人々の前に出て「イエスはキリストである」と伝えました。人々はまだ、回心したというかつての迫害者を恐れて話に耳を傾けません。それだけでなく、自分たちの町から出て行ってほしいとさえ思っています。

宣教しようと人々の前に立つその度にパウロは拒否され、ある時は石を投げつけられ、町から町へと移動しなければならなくなります。毎回逃げるようにして新しい場所に移ります。それは、普通の人だったら絶望してしまうような状況です。

けれどもパウロは、その度に気持ちを切り替え、初めて宣教に行くかのような新しい気持ちで人々の前に立ったのです。どれだけ嫌われても、だれも理解者を得られなくても、それでもイエスを告げ知らせる場を探し求めていったパウロは、わたしたちの生きた模範だと思います。

わたしたちにも、あきらめたくなるような現実に立たされることがあります。どんなに親切にしても、お世話している人が心を開いてくれない。自分の言い方が悪いのかも知れないと思って黙っていると、無視していると勘違いされる。

いろんな時に、苦しみを経験し、自分の務めに忠実を尽くせないのではないかと絶望的になります。実はそうした場面こそ、わたしたちが天の国につながるチャンス、イエスの生きざまに自分を重ねて生きるまたとない機会なのです。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」わたしたちはこのような声を聞かないかも知れません。けれども、実生活であきらめずに何度でも出直して苦しみを担おうとするなら、何度くじけてもまた起き上がって使命に忠実に生きようと決意するなら、その時すでにあなたは「愛する子」として生きているのではないでしょうか。

苦しみを担い、使命に忠実に留まる姿は、見た目には輝きなどないかも知れません。ですが御父はそんなわたしたちに声をかけているはずです。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」そしてイエスは、日々十字架を背負って生きる姿に、「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬ輝き」を見てくださっていると思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼灰の水曜日のことをフッと思い出した。この日の「灰を頭に受ける式」には、昨年の受難の主日(枝の主日)に受け取った枝を回収し、焼いて灰にしたものが使われる。そのことは知っている人もいるかも知れない。
▼灰の式に移ると、司祭は灰を祝福する祈りを唱える。祝福を終え、まずは司祭が自分で自分の頭に灰を置く。それから聖体拝領の要領で信徒、修道者の頭の上に灰を置くことになる。皆、神妙な面持ちで灰を頭に受けて席に戻っていく。
▼灰の水曜日のミサが終わり、いつものように司祭用の跪き台で祈って祭壇に一礼し、聖堂を後にしようとした時のことだった。聖体拝領をする場所に灰が落ちていることに気づいた。ああ、きちんと頭に置いたつもりでも、あとで落ちる分もあるのだなぁと思ってもう一度見て、思いがけないことに気がついた。男性側の灰が、女性側の灰よりも余計に落ちているのである。
▼結論から先に言うと、男性にはハゲ頭の人が結構いるので、頭に残らずに全部滑り落ちて床にこぼれているのだと思う。ただ、この日のミサにはたしかに男性の参加者がいつもの平日より多かったとは思うが、それでも圧倒的に女性が多かったはずである。それなのにどうして、女性側に落ちていた灰よりも、男性側に落ちていた灰のほうが多かったのか。
▼謎は深まる。たしかに男性の頭に灰を置く時、わたしは何人かのケースで、「この人の頭の、どこに灰を置けば滑らずに残るのだろうか」と悩む人がいた。悩んで時間をかけるわけにはいかないので瞬間的に判断して灰を置く。そうして置いた灰が、ほとんど全部滑って落ちてしまっているのだろう。
▼笑うに笑えない話だなぁと思って、最後の最後に祭壇脇のテーブルを見たら、灰の水曜日の式に使った灰を入れたガラスの器があり、そのテーブルの足もとにも、灰がしっかり落ちていた。そんなはずは・・・と思ったが、たしかに灰が少し落ちていた。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===