四旬節第4主日(ヨハネ9:1,6-9,13-17,34-38)

誰でも人は、心で思っていることが言葉になるものです。寒いなぁと思っているから寒いと言うし、今日は春の陽気だなぁと思っているから春のようですねと言うのです。私たちはめったなことで心にもないことを言ったりはしません。

中田神父が皆さんに語りかけるいちばんの場所は説教です。ですから、中田神父にとっては、何よりもまずこの説教が、思っていることを語る場所だと考えています。思っていると言っても、説教はただ単に朗読した福音の感想を述べる場所ではありませんので、イエスは私を通して、会衆の皆さんに何を語りたいのだろうか、どのような導き、指針を今週示そうとしているのだろうか、そういうことをいつも頭に置いて話をすることになります。

その中でも、私が大切にしたいなと思っていることがあります。それは、「なるほどね」とか「そういうことか」という何か納得したことを話す、ということです。新しい発見であったり、納得したことでなければ、うまく伝わらないし、うまく話すこともできないからです。

今週も、私にとってのちょっとした発見がありました。今週の福音朗読は、目の見えない人がイエスによっていやされる奇跡物語です。イエスは「地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目に塗り」(9:6)、シロアムの池に行って目を洗うと見えるようになります。シロアムとは、「遣わされた者」という意味(9:7)の池ですが、まさにこの人は、イエスによって準備を調えられ、遣わされた人となって戻ってきたのです。

ところが、目が見えるようになり、遣わされた者へとすっかり変わって帰って来ると、人々は前に盲人だったこの人を寛大には受け入れてくれません。人々は癒されたこの人をファリサイ派の人々のところに連れて行き、ファリサイ派の人々もさんざん彼を質問攻めにしたあげくに外に追い出したのでした。この「外に追い出した」(9:34)という部分が、今年中田神父にとっての新しい発見となりました。

ファリサイ派の人々が前に盲人だった人を「外に追い出した」というのですが、「どこから」外に追い出したのでしょうか。ファリサイ派の人々は、律法という掟の解釈をし、人々から宗教指導者として認められていた人々です。彼らが「外に追い出す」という場合、それは当時のユダヤ社会からの追放、会堂に集まって律法を読み聞きしてつながっている宗教的な交わりからの追放を意味していました。単に人の家の玄関から追い出されたという意味ではなかったのです。

これがどういうことか、私たちにはなかなか理解できませんが、私たちの理解できる言葉で言えば、村八分にされたと言うことです。ちなみに村八分とは、家が火事になった時と、葬式以外は、いっさい関わってもらえなくなるということを言うのだそうです。あの人はイエスを信じてユダヤ教の会堂から追い出された人だから、関わらないようにしよう。あの人と関わったら、私たちまで会堂から追放され、共同体の中にいられなくなるかも知れない。そう思って、人々は前に盲目だった人を遠ざけていきました。

ところがイエスは、彼が外に追い出されたことを聞き、彼を見つけに行きます。たまたま出会って別れた人ともう一度会うのは簡単ではないと思うかも知れませんが、彼はユダヤの共同体から追い出されていたので、むしろ見つけ出すのは容易だったかも知れません。会堂での律法の学びを中心に形づくられていた共同体からはじかれたこの人は、頼るものが何もない状態だったでしょう。見えるようにしてくださったイエスだけが唯一の頼りでした。

エスはこの人を見つけ出します。それは、ご自分と同じ境遇にある人をさがして見つけ出すようなものです。イエスはかつて弟子たちに、ご自分がどのような目に遭うかを示してこう言いました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(ルカ9:22)。

たとえその時代の人々から迫害を受けても、イエスはその人を見つけ出してくださいます。それは、イエスが長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されても、御父によって復活の栄光にあげられたのと同じです。見つけ出して、イエスを信じ続けるための力と勇気を与えてくださいます。「あなたは人の子を信じるか」(9:35)「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」(9:37)。

登場人物は、「主よ、信じます」(9:38)と答えています。彼は、人々から迫害を受けても、イエスがわたしを見つけ出して力と勇気を与えてくれるという体験をしました。この姿は私たちにも当てはまります。私たちがイエスへの信仰を公にすることで、受け入れられずに外に追い出された気分になるかも知れません。そんな時イエスは必ずわたしを見つけ出し、力と勇気を与えてくださいます。

さらにこうした経験は、イエスの十字架への道を共に歩むことにもなります。この四旬節、私たちがイエスを信じる信仰を公にして、たとえそれが人々に受け入れられないことがあっても、十字架への道を共にしていることを忘れずにこの信仰の道を歩み続けましょう。外に追い出された時こそ、イエスがわたしを見つけ出してくださるまたとない機会なのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼昨晩、愛する妻を亡くした人の通夜に参列した。その方は、長い闘病生活をまっとうし、若くして神さまのもとに旅立っていった。妻を亡くしたご主人の2つの姿を見た。通夜の式中見た夫であり子どもの父親としての背中と、参列者に挨拶をしている時の涙の溢れる姿。
▼どちらも偽りのない姿だと思う。もっともっと長く一緒にいたかったという気持ちと、これからは子どもに母親の分も愛情を注いでいこうという父の姿が痛いほど伝わってきた。私はなかなか言葉が見つからなかったが、「知らなかったとは言え、お見舞いにも行けずにごめんなさい」と喪主であるご主人に声をかけた。
▼「10年間病と闘いました。一時は快方に向かっていたのですが、最近再入院してそのまま逝ってしまいました。もっと長く一緒にいたかったんですけど」。ご主人は最愛の妻と一緒にその長い10年間を病と闘ってくださったのだろうと思った。だから、奥さんはきっと感謝の言葉を残して神さまのもとに旅立ったに違いない。
▼亡くなった奥さんは、神さまのもとで生きていると思う。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)。来週の福音の箇所だ。この神の命は来世で与えられるのではなく、今この世で与えられ、それが神のもとで完全に満たされると私は信じている。
▼父親が、母親の役もこれから果たしていく。大変だなぁと思う。子どもさんが愛情をいっぱい受けて、この悲しみをいつか思い出として語ることのできる日が来ればと願う。生きておられる間に奥さんを見舞うことができなかったが、日曜日の11時15分からの葬儀ミサに合わせて、永遠の安息をミサの中で祈ろうと思う。もし、祈ってくださる方がおられましたら、一緒に手を合わせていただければ幸いです。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===