四旬節第5主日(ヨハネ11:3-7,17,20-27,33b-45)

今週は、「イエスが愛しておられた者」(11・3)とあえて説明が加えられているラザロのよみがえりについて感動的な場面が朗読されました。一連の出来事の中から、イエスの3つの言葉を手がかりに今週の糧を得ることにしましょう。

エスの3つの言葉を先に並べておきます。この言葉で私が言いたいことがすぐに分かった人もいるかも知れません。ぜひその人は、予想したことがズバリ正解だったかを楽しみにして話を聞いてください。3つの言葉は、「どこに葬ったのか」(34節)「その石を取りのけなさい」(39節)「ラザロ、出て来なさい」(43節)です。

まず、「どこに葬ったのか」という言葉から探っていきましょう。「どこに?」と言っているのは、単に場所を知りたいのではありません。イエスはラザロの所に行きたいのです。ラザロの葬られている場所に行って、直接働きかけをしたいのです。

それはどういうことでしょうか。イエスがラザロの葬られている場所に行きたいと言っているのは、ラザロに限りませんが、イエスはご自分が愛しておられるすべての人のところに、直接足を運んでくださる、顔と顔を合わせてイエス愛する人の願いに応える方だということです。

「ああ、そんな人がこの近くにいるのですか。覚えておきましょう」というような態度ではなく、イエスは愛するすべての人を心にかけて、その人はどこにいるのか、どんな状態なのか、何が必要なのかを完全に理解してくださっているのです。

ラザロに向けられたまなざしは、私たちにも向けられています。「その人はどこにいるのですか。私はその人のもとを訪ね、必要に応えたい」。イエスは今この時代にも、ラザロに向けたまなざしを私たち一人ひとりに向けているのです。私は、イエスがそこまで私のことを心に留めてくださっていると考えたことがあるでしょうか。イエスが一人ひとりを意識して心にかけてくださっていることに、感謝しているでしょうか。

次に、「その石を取りのけなさい」について考えてみましょう。この石は、見た目には墓穴をふさぐ石に過ぎませんが、よく考えると、死んだラザロと生きている人間とを隔てる石です。ラザロを死の世界に閉じこめる石です。ラザロをイエスから遠ざけている石とも考えられます。

この石を、イエスは「取りのけなさい」と言ったのです。つまりイエスは、「ラザロを生きた人間から遠ざけ、死の世界に閉じこめ、イエスからも引き離そうとする妨げを今取り除きます」という宣言と言えます。同時に「その石を取りのけなさい」という宣言は、イエスが自分とラザロとを隔てるものを取り除く力を持っているということです。

ここでも、ラザロに向けられた宣言は、私たちにも響いてきます。私たちの生活に、または一人ひとりの心に、何かしら石が置かれていて、私たちは閉じこめられているかも知れません。自分の殻に閉じこもっているとか、人間不信の闇に閉じこめられてしまっているとか、歩むべき道を見失い、絶望を味わっているとかです。

エスはそんな私たちのところに来てくださり、周りにいる人の手足を使って、隔ての石を取りのけてくださいます。周りの人々に、「その石を取りのけなさい」と命じて、私を隔てている場所から引き出して、イエスの前に立たせてくださいます。イエスが私の上に置かれている隔ての石を取り除き、暗闇に光が入るようにしてくださるのです。光が入ってきたなら、私たちの解放のときはもうすぐそこまで来ています。イエスが最後の言葉をかけてくださり、私たちは自由になるのです。

最後のイエスの言葉は「ラザロ、出て来なさい」でした。イエスがラザロにこう言ったのは、ただ墓の中から外に出て来なさいと命じただけではないと思います。そんなことであれば、「ラザロ」と呼ぶだけでもかまわなかったでしょう。イエスがあえて声に出して「ラザロ、出て来なさい」と呼んだのは、人々の目に、ラザロがイエスの前に出る様子を焼き付けたかったのではないでしょうか。

今、死者の世界に閉じこめられていたラザロが、イエスに呼び出され、イエスが与える命を受けてイエスの前に呼ばれている。ラザロを閉じこめられていた死者の世界から呼び出すことができるのはイエスしかいない。ラザロを生きている人々から遠ざけていた隔ての外に出し、自由と解放を与えてくれるのはイエスしかいない。出来事を目撃したすべての人がはっきり理解したはずです。

ラザロに起こった出来事は、イエスの復活の前触れです。死の世界に閉じこめられた人を復活の命に呼び出すことができるのは、ご自分で死者の中から復活したイエスただ一人です。イエスは、人間を悲しみと絶望に閉じこめる石を取りのけ、解放してくださる唯一の救い主なのです。私たちに「出て来なさい」と命じて、誰も呼び出せなかった悲しみから、希望のない世界から、私たちを呼び出すことのできる方なのです。

エスの言葉を通してラザロに起こったことを、私たちも希望することができます。イエスは今も、「その人はどこにいますか」「石を取りのけなさい」「出て来なさい」と呼びかけます。かつてそうであったように、今も私たちを神の命に招くイエスに信頼しましょう。イエスは私たちを確かな希望へと招く方であることを、ご自身の復活によってまもなく証明してくださいます。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼2月25日から、一定のカロリーの中で一日の食事を収めるように努力している。だいたい2100kcal。あまり運動しない30代40代男性の摂取カロリーから150kcal差し引いた量だ。これまでが活発な運動習慣を維持している人のカロリー分食べていたところからドーンと落としたので、常にお腹が空いている。それでイライラしている時すらある。
▼最近単品のおおよそのカロリーが分かるようになってきた。ご飯一膳252kcal、パンにバターを載せると233kcal。皿に盛りつけた野菜が50kcal、トマト半分、キウイ半分、いずれも15kcal。素うどん350kcal、パスタメニューはおおよそ650kcalなど。カレーやカツ丼は、おいしいだけにかなりのカロリーになる。
▼最近までもりもり食べた上に間食を無制限にしていたことを思うと、早めにセーブしようと決心して正解だったと思う。生活習慣病になってからしぶしぶ食事制限を強要されるのでは悲しすぎるからだ。満腹まで食べたい気持ちはあるが、もうそれは思い出にしまってしまおうと思っている。
▼そろそろ体重も落ちなくなってきた。はじめは1kgストーンと落ちたのだが、今はそれっきり見える変化はない。ところが、船の乗り降りの時、巡回教会に籍を置いているある信者が、隣にいる友だちとひそひそ話をしているのが聞こえてそれが嬉しかった。「神父様ちょっと痩せてきたんじゃない?」ひそひそ話で言っているのだから、お世辞でないことは確かだ。
▼「分かるー?砂糖を一袋、置いてきたんだ」そう言いたかったが自分一人で喜びをかみしめることにした。自分で決めている範囲内で、どうやって楽しく食べるか。今はパズルのように楽しんでいればそれでいいと思う。単に体重が減ったから健康になったというわけでもないし、そういうものはいちいち気にせずマイペースで続けたい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===