四旬節第3主日(ヨハネ4:5-15,19b-26,39a,40-42)

エスは言います。「『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(4・10)。イエスのこの言葉に、私は2005年8月に公開された映画「マザー・テレサ」の1つの場面を重ねて考えました。

オリビア・ハッセー演じるマザー・テレサは、駅で倒れて動けなくなっている人に目が留まりました。その人は身動き一つしませんでしたが、この人を通して「もっとも貧しい人々の中に、『水を飲ませてください』と言っているイエス・キリストを見た」と告白しています。彼女のこの体験が、その後の生き方を決定づけました。

マザー・テレサは、インドのもっとも貧しい地域の人々に奉仕するという生き方を通して、イエスが言う「生きた水」をいただくことになったわけです。「水を飲ませてください」と言ったのは目の前の人であると同時に、その人の中におられるイエス・キリストであった。

そのことが分かってからは、むしろ彼女の方からその人(目の前の人と同時に、イエス・キリスト)に頼み、その人(さきほどと同じ)は生きた水を与えてもらうことになりました。こうしてイエスの言葉「『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」が完全に理解できたのだと思います。

マザー・テレサはよく次のようなことを言っていました。「わたしは毎朝、祭壇の上から小さなパンのかけらの主をいただいています。もう一つは、町の巷の中でいただいています」。この話は「二つの聖体拝領」と言われるようになりました。一つは朝ミサで拝領するご聖体、もう一つは町に出て、行き倒れの人を探してその人に接することでイエスに触れるというのです。

マザー・テレサが言った「町の中でいただくもう一つの聖体拝領」は、そのままイエスの言葉と一致しています。マザー・テレサは毎日町のどこかでのどの渇いている人、食べ物に困っている人、そのほかにも見捨てられている人に十分なお世話をして、人々の中におられるイエス・キリストから、「生きた水」をいただいていたのです。

私はマザー・テレサの取った態度の中に、福音宣教の大切なカギがあると思いました。つまり福音宣教とは、何も通りに立って聖書の本を片手にイエス・キリストの生涯を話して聞かせることばかりではないということです。イエス・キリストが人々に示したのと同じことを、私たちの身の回りで実行するなら、それがすでに福音宣教になるということなのです。

もう少し説明を続けましょう。例えばイエスは、「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」(マタイ5・39-42)と言いました。

このイエスの言葉を、繰り返し言うことも福音宣教かも知れませんが、むしろ生活の中でこのイエスの戒めを実行することが、より力強く福音宣教していることになるということです。同じように、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」(マタイ5・43-45)。この言葉を繰り返すよりも、生活の中でその通りに生きることが、確かな福音宣教なのだと思います。

実は私たちの身近なところにも、今週の福音朗読と似た場面がたくさんあるのではないでしょうか。「手を貸してください」「席を譲ってもらえませんか」「教えていただきたいことがあるのですが」。井戸の側でイエスサマリアの女性に語りかけた言葉に当てはめて考えると、「『○○してください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに(恵みや報いを)与えたことであろう」となります。

生活のあちこちに、サマリアの婦人が直面した場面があるということです。私たちがそれらを逃す手はありません。ごく身近な場面で、出会う人の中にイエスを見いだし、自分から進んで近づくことによって、福音の教えに生きる場があるのです。それはそのまま福音宣教にもなるし、第二の聖体をいただくことにもなるのです。

遠い井戸まで出かけなくとも、もっとも貧しい人々のもとへ出かけなくても、今生活している目の前で、イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言っています。もっと大胆に、「主よ、その水をください」(4・15)と願いましょう。出会う人々の中におられるイエスに、「生きた水」を与えてもらいましょう。

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ちょっとひとやすみ
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明治村の見学で撮影したデジカメ画像をようやく現像に回した。できあがったものを模造紙に貼って、大明寺教会で展示することにしたが、模造紙に貼る仕事を教会学校の子どもたちに手伝ってもらうことにした。実はこうして教会学校を1回サボったのだが。
▼模造紙の上には、あらかじめ割り付けのためのスペースをマジックで囲んで用意し、そこに割り付けて欲しい写真も無造作に置いて子どもたちに配置を考えさせることにした。模造紙は2枚あり、1枚は犬山市の国宝犬山城と大明寺教会以外の明治村の写真を配置することにし、1枚を明治村の大明寺教会聖堂だけに重点的に使用することにした。
▼もろもろの写真を貼る模造紙には明治村とこうじ神父が書いたが、大明寺教会を特集する模造紙には子どもに題字を書かせようと思い、「誰か書いてみないか。○○、書いてみるか?」と向けると、まんざらでもなさそうだったので任せることにした。すると、「大」は問題なく書いたのだが、続けて「寺」と書いてしまったから大騒ぎ。「大明寺教会って、まともに書けないわけ?」とほかの子どもから突っ込まれ、たじたじ。上から紙を貼り、「明」と書いて続きを書かせた。花を持たせようと思ったのが裏目に出てしまった。
▼区画ごとに写真の配置を決め、分担してセロハンテープで貼り付けるのだが、写真の配置をやってみたい者はいるかと聞くと、みんな尻込みしてなかなか手を出さない。この子が良かろうと思う子がいた。「やってみるか」と言うと、迷わず写真をにらみ、パパパと配置を決め、「さああとは貼り付けてくれ」と指示を飛ばし始めた。あの子には特別なリーダーの資格があるのかも知れない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===