待降節第1主日(ルカ21:25-28,34-36)

いよいよ待降節に入り、教会のカレンダーは新しい一年が始まります。「聖書と典礼」のパンフレットをお持ちの方は、待降節という文字に目をやってほしいと思います。ない方もどうぞ、頭の中で漢字を思い浮かべてみてください。

そこに書かれている漢字は、「待つ」「降りてくる」「季節」のそれぞれの文字です。もちろん、「イエスの誕生を待つ季節」です。今の私にとって、イエスの誕生を待つことに、どんな意味があるのでしょう。それを探っていきたいと思います。

福音書は、ルカによる福音のずいぶん後ろのほうが読まれています。一見すると、これからイエスの誕生を待つという季節に、似つかわしくないと思われるかも知れませんが、注意して読むと、今読んだ聖書の箇所が私たちの準備に一役買ってくれていることに気付くと思います。まずは、この朗読に即して考え、それから、今日というこの日に当てはめていきましょう。

前半で、異常気象に人々がおびえ、気を失うと書かれているのですが、「あなたがた」と書かれている人たちには、「頭を上げなさい。解放の時が近づいているのだから」と励ましの言葉を語っています。その時には、天変地異と同時に、人の子が再び来るのを見るわけですが、人の子を信じない人々には恐れを感じさせるものの、信じる人には「解放の知らせ」「喜びのとき」となるのです。

人が人を信じられないとか、愛したのに憎まれるという、この不安定な世の中が終わりを告げるとき、その日は、人の子を信じない人にとっては恐れおののくときですが、人の子、救い主、イエス・キリストを信じる者にとっては「解放」すなわち「喜び祝う日」になるのです。

さてこの説明を、今日という私たちの生活の場に当てはめて考えてみましょう。待降節、イエスの「誕生を待つ」という見方を重ねてみると、実はここで言われている「終わりの時」は、イエスの誕生によって決定的になった。信じる人が「身を起こし」「頭を上げて」待つ「解放」は、もうイエスが幼子としておいでになることで決まったも同然なのだ。だから、おおいに期待して待ちなさい、ということになります。

まもなく来るイエス・キリストは、これから果たして本当に私たちを救ってくれるかどうか、心配する必要はない。今度こそ信じていいメシアなのかどうか、最後まで見守る必要なんかなくて、ついに「解放」される。天変地異ほどの異変の中でも、喜びを失わない、そんな解放の時が、もうやって来たも同然なのだ。だから、喜びなさい。そう呼びかけているのです。

別に天変地異を、自然現象の中に見るまでもありません。天地がひっくり返るようなことが人間同士のあいだで繰り広げられています。私がすべてをなげうって人生を託した人が、実はわたしを食い物にしていた。社会的地位、信用、これまでの半生をなげうったのに、すべてを託したその人はわたしを捨てていってしまったとか、天地がひっくり返るような話です。そして現実にはその程度のことがそこかしこで起こっているのです。

こうした異変の中で、振り回され、恐れおののくとしても、「解放してくださる方」を信じるなら、信じることができるなら、救いがあるというものです。まもなくおいでくださる幼子、これが、信じる私たちへの保証、「身を起こし」「頭を上げて」待つよりどころなのです。

平穏無事に暮らす人々も多いかも知れません。けれども、今日生きられるか、明日は生きているかと、日々恐れおののいているすべての人に、解放の時がやってきます。幼子がおいでになって、それで完成ではないにしても、もう与えられたも同然なのです。この喜びに今日私たちも思いを馳せながら、私たち一人ひとりも、良き降誕祭を迎えることができるよう、準備を進めてまいりましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼先週の「ちょっとひとやすみ」に大型自動二輪を受けて落ちた話を書いたら、それが引き金になって中年女性とこんな会話になった。「えー、それじゃバツイチじゃないですか」。「バツイチって、意味分かって言ってるの?この場面で使う言葉じゃないと思うけど。それじゃ2回落ちたらバツ2になるわけ?」自分で言っておいて自分で大笑いしていた。
▼運転免許試験場は毎度試験官が違っていたり前回はクリアできていた課題をしくじったりするので簡単ではない。合格したら正々堂々と報告するし、その時は免許証の絵手紙でも書くから、今しばしお待ちを。今日は過ぎた一週間でいちばんの笑い話を紹介。
▼冬になると高島の巡回教会は前日の土曜夕方ではなく日曜日にミサをしている。理由は、冬の荒天にミサをしに行くと、出かけた時間帯には船が出ても、帰りの夜の船は欠航になることがあるからだ。高島で足止めを食ってしまうと、翌朝の大明寺教会、馬込教会のミサができなくなってしまう。
▼そこで、天気が落ち着く日曜日の昼前にミサをして、昼食をご馳走になって帰ることにしている。先週はイカ刺しと、カワハギのフライを食べてアサヒスーパードライを1本飲んだ。のどを潤したそのあとに、眠気が襲ってくることになる。12時30分に高島ターミナルで船に乗った。この時間帯、出発はいつも12時40分である。そのうちにうっかり眠ってしまい、事件は起こった。
▼「キンコンカンコン。本日はコバルトクイーンにご乗船いただき、誠にありがとうございます」。船内放送を聞いて飛び起きた私は、寝ぼけてとんでもない行動に出た。船室から飛び出して昇降口に行き、船員に「降ろしてください」と言ったのだ。船員は、「ダメです。もう船は動き出してるから。教会の先生、本当に降りるんですか?」「寝過ごしてしまったんです」「降ろすことはできません」。
▼私の頭の中では、「高島を出発→伊王島に到着→伊王島を出発する際のアナウンスが聞こえた」という感覚だった。降ろしてくれないというのでしかたなく船室に戻って大明寺教会の役員に電話をかける。この日は戻ってすぐに納骨の約束をしていたからだ。納骨は午後1時。「伊王島乗り過ごし→長崎の大波止伊王島に逆戻り」となると2時18分になるから、「寝過ごしたので納骨は2時半に変更」と正直に船の中で電話。
▼船が動き出して10分。見慣れた島が目に飛び込んできた。伊王島だ。なぜ伊王島が見えてくる?そこから慌てて電話をかけ直した。「○○さん、ゴメン。さっきの連絡取り消し。予定通り1時から納骨です。寝ぼけてたみたい」。ここは正直に話したほうが面白い。伊王島で船を降りるとき、「さっきは船がまだ動き出してなかったのですね」と船員に言ったら、「だから先生がどうして降りるって言うのか、分からなかったんですよ」。
▼そりゃあそうだ。もしも高島で降りていたら、2時半では済まされず、さらに30分以上遅らせなければならなかっただろう。そんなことにでもなれば昼に楽しみにしていた「ジャパンカップ」でのディープインパクトの雄姿も見損ねていたかも知れない。あんなに強い馬なのに今年限りで引退、しかも残りは有馬記念1レースのみというのは実にもったいない話だ。今後語り継がれる1頭であることは間違いない。おっと、コースを外れてしまった。これで「バツ2」か。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===