待降節第2主日(ルカ3:1-6)

今日の福音は、洗礼者ヨハネの登場と、イザヤの言葉の引用で、私たちにクリスマスの準備を促しています。これからの一週間、私たちの心の準備に当てていく何かをつかむことにいたしましょう。

この福音書を書いたルカは、最初のところで、二つの動きを紹介しています。一方は、この世の権力者の名前を挙げて、この世がどれほど権力を欲しがっている世の中だったかを描き、もう一方では、荒れ野という、この世の権力争いとは無縁の場所で、神の言葉が伝えられていく様です。

神の言葉は、権力と支配がすべてという場所に降ることなく、しかしそれと同じ時代に、神の言葉はヨハネが活動の場に選んだ荒れ野に降ったのです。権力は何と魅力的なことか、神を信じることに、どれほどの意味があるだろうか。権力者が力を見せびらかしていたその時に、権力争いから離れた場所で神の言葉が降り、活動し始めるのです。

あるいはそれは、ほかのいろいろな疑いを持っている時代に、神の言葉が降ったと言ってもいいでしょう。たとえば、命は、大切だろうか、命の大切さをいったい誰が、どこで教えてくれるだろうか。そう疑っている現代にも神の言葉は降る。そう言い直しても構いません。

政治がよくなれば、日本は良くなると考えている人がたくさんいます。それはそうかも知れませんが、政治家が世の中を動かして、たとえばゆとりのある教育を押し進めたとしても、命の大切さを、本当に教えることができるようになったかと言ったら、そうでもないのです。神の言葉が降って、神の言葉を受けた人が、神の思いを忠実に伝えなければ、たとえば命の大切さも、本当の意味では伝わらないのです。

学校では、特定の神を取り上げることはできません。ですから、「いのちは神が与えてくださったものだから、大切なんだ」という、この一言を言いたくても言えないのです。「かけがえのない命」とは言えても、神が造られたから命は大切なんだ。たったこれだけのことが言えないのです。

だからこそ、神の言葉はザカリアの子ヨハネに降り、伝えよと言われたことをそのまま伝えます。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。(中略)人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と。残念ながら、政治の舞台も教育の現場も、神の言葉を神の言葉として語れないのです。そんな行き詰まりの中にある社会に、宗教だけが、神を信じる集いだけが、神の言葉を神の言葉として聞き、学び、伝えて回ることができるのです。そしてその神の言葉が、まもなく人となっておいでになるのです。今私たちはその日を待ち、喜び迎えようとしているのです。そう思って、一日一日を過ごしていただきたいのです。

次に、洗礼者ヨハネの口を通して語られた、イザヤ預言者の言葉をもう少し考えてみましょう。引用された言葉に共通するのは、「〜される」という言い回しです。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らに(「される」ということでしょう)なり」。

洗礼者ヨハネの呼びかけを聞いて、あーそうだ、私たちは救い主をお迎えするために、あわただしい生活のなかに、落ち着いた場所を用意しないといけない。そう感じた人たちが、呼びかけに答えて神に立ち直るとき、時間に追われ、落ち着きを失っている私たちにも、神様が宿る場所、平らな場所が与えられるわけです。

それは、呼びかけに答える私たちと、実際にその歩みを完成してくださる神様との、共同の働きです。神が、谷を埋め、山と丘を低くし、曲がった道をまっすぐにしてくださるのです。こうして、イエスを迎える準備の時から、神が私たちの準備を助け、完成してくださると気付いていただきたいのです。

神が、人となっておいでくださる。権力争い、支配欲などでドロドロになっている世の中であっても、神は伝えたいことがたくさんあって、おいでくださる。命がなおざりにされ、物とか力で他人を支配しようとする世の中に、神は命の大切さをみずから知らせにおいでになるのです。

国や政治、あるいは法律が、命の大切さを決めるでしょうか。今宿ったこの命は守り育てるけれども、あの命は事情があって守ってあげられない。現に法律がそれを許しているのだからと考える人がいますが、日本の法律はなぜすべての命を大切にしてくれないのでしょうか。あの人はまだ生きていて良いが、この人はかわいそうだから、国の定めた条件に合えば死んでよい、とでも言うのでしょうか。

神だけが、命の尊さ、生きる意味について正しく教えてくださいます。そのことをはっきり教えるために、神がまもなく、人となっておいでくださるのです。ある国で安楽死の法律が決まっても、いのちに権限を持っておられるのは神です。その国にとっても、イエスの誕生は、まことの命の意味を知るために必要なのです。

神だけが知っておられ、神のみが教えることのできる真理を、私たちは必要としています。そういう思いで今年も主の降誕を待つことにしましょう。教会にみなで集まってイエスを待ち、生活にあっては祈りの時間を持つことで、この社会にイエスがおいでくださる必要があるということを証ししていきましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼葬儀が1日2回も続いた。朝、船の中で見かけたおばあちゃんが、その日の昼には容態が急変してその日のうちに亡くなった。同じ日、十日間くらい「今日か明日か」と気になっていたおじいちゃんが亡くなってしまった。
▼その日の夜9時、先におばあちゃんが亡くなったという電話が入った。「亡くなりましたか。通夜と葬儀の時間を明日にでも話し合いましょう」。そう言って電話を切ってから1時間もしないうちにおじいちゃんが亡くなったという電話が入った。「えー。2人亡くなっちゃったなあ。落ち着いて聞いてね。2つの巡回教会で死者が出てしまったから、通夜と葬儀はそれぞれこういう時間でないと組めません。だから、都合もあるでしょうが、こういう時間帯で進めていきましょう」。
▼すぐに、両方の遺族たちに折り返し電話を入れた。木曜日、夜6時から1つめの通夜。6時37分の船で移動し、7時半に2つめの通夜。最終便の船に乗り、司祭館に戻る。金曜日は9時57分の船に乗り11時から1つめの葬儀ミサ・告別式。火葬の祈りまで済ませて12時40分の船に乗って移動し、13時半から2つめの葬儀ミサ・告別式。火葬の祈りを済ませて15時半の船に乗って司祭館に戻る。
▼船も便利なこともある。渋滞がないのでほぼ定刻に島から島に移動することができる。だが一日中船に揺られてそれが二日連続となるとちょっと体ももたない。絶対に口を付けない栄養ドリンクとかサプリメントと言われるものを、使ってみようかなという誘惑に駆られる。サプリメントって、使うの抵抗ありませんか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===