年間第15主日(マルコ6:7-13)

マルコ福音書を中心に日曜日の福音朗読を組み立てるのがABC年さん年周期のB年です。B年の年間第15主日は、弟子たちが十二人呼び寄せられ、派遣されていきます。私たちが日曜日にこの聖堂に呼び寄せられ、派遣されていく姿を思い描きながら、今週の糧をいただくことにしましょう。

チャンスがあって、あることを調べて分かったことがあり、皆さんと分かち合いたいと思います。それは、一般のカレンダーに見られる「六曜」についてです。ご存知のかたもおられると思いますが、「六曜」とは「日の吉凶に関しての陰陽(おんよう)道や民間信仰で、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口(しゃっく)の六種の日」のことです。

勘の鋭い方は私が何を言いたいのかすでにお分かりのことでしょう。これは「陰陽道民間信仰」であって、仏教の教えではない、ということです。カトリック教会の神父がわざわざ説教で言うことでないかもしれません。けれども皆さんの家庭でも、仏教の信仰の方と結婚した方もいらっしゃることでしょう。そうであればなおさらですが、仏教は仏教の教えを大切にし、キリスト教キリスト教の教えを大切にすべきだと思うのです。

なぜ日本人は、「大安」や「友引」に神経を遣うのでしょうか。キリスト教徒は、「大安」や「友引」をあまり気にしませんが、仏教徒が、仏教の教えではない「大安」や「友引」を気にするのは、間違っていると思うのです。仏教の教えであれば仏教徒が大切にするのは当然です。なぜ陰陽道の考え方なのに、仏教徒が振り回されるのですか。私はそう言いたいのです。

確認のために、「六曜」の中から二つ紹介します。一つは「友引」です。明治時代までは共通という意味の「共」に「引く」と書いていました。意味は、「勝負がつかない引き分けの日」です。しかも、「大安」の次に日取りが良いとされています。

もう一つは、「仏滅」です。これは「何をするにも悪い日」だそうで、明治時代までは「物」を「失いやすい日」として「物」の「ぶつ」に「滅」と書いていたのです。人によっては「仏すらも滅びる縁起の悪い日」と解釈していたようです。

ここまで知れば、私たちが何となく考えていた理解が曖昧であったことが分かります。「六曜」は陰陽道の教えであって、仏教の教えではないのです。それでも納得行かない人は、お寺のお坊さんに「友引は仏教の教えですか」「仏滅は仏教の教えですか」と尋ねてください。

私たちはカトリック教会の信者ですから、カトリックの教えを大切にしなければなりません。福音朗読では十二人の弟子たちが二人ずつ組にして遣わされていきます。ここでも、弟子たちに本当に必要なことは一つです。それは、「イエスの弟子だから、イエスの教えを何より大切にする」ということです。

エスは弟子たちを派遣するにあたり、指示を与えました。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず」(6・8)とあります。この指示は、イエスの教えを何より大切にするという考えが背景にあります。

実際には予備のためのパンを備えておくと、何かと便利でしょう。寄付をしてもらうための献金袋を持っておくことも、いざというとき助けになるでしょう。けれどもそれは、「イエスの教えを何より大切にする」という原則に外れるのです。イエスの教えに行き詰まったとき、すがるものがほかにある。これでイエスに全幅の信頼を置けるでしょうか。

「この場面ではイエスの教えを拠り所にしましょう。ここは民間信仰を拠り所にしましょう。」私たちキリスト者には、そのような使い分けは許されていないのです。すべてがキリストを拠り所にして組み立てられたものでなければならないのです。

私たちの命はどのようにして与えられたのですか。私たちは死ぬとどのようになるのですか。キリスト者は皆、子供であろうが大人であろうが、命の始まりから死、そして復活の希望まで、イエスの教えを拠り所にして説明すべきなのです。

あえてもう一度触れておきます。なぜこの世の旅立ちについて、仏教徒陰陽道を拠り所にして日取りを決めるのですか?私たちキリスト者陰陽道を気にして旅立ちの日を決めたりしません。仏教徒も、仏教の教えに沿って旅立ちの準備をすべきではないのでしょうか?

私たちキリスト者は、命の始まりから終わりまで、復活のキリストに希望を置いて人生を全うします。イエスから派遣された弟子たち、朗読では教えについて細かな指示はありませんが、派遣された場所で彼らの一挙手一投足が、人々に「この人はイエスの教えを拠り所に生きている」と感じさせたのです。最後は教えがどうのこうのではありません。生き方が、「この人はイエス・キリストを心底信じて生きている」と伝われば、それが何よりの宣教、証なのです。

日本人の多くは「今日は日が悪いから」と言って行動を控えたりします。その中には仏教徒もいるでしょう。仏教が教えもしない「友引」や「仏滅」に右往左往していては、「私は仏教の教えを拠り所にして生きている」とどうして言えるのでしょうか。

キリスト者は「日が良くても悪くても」福音を宣教します。パウロが弟子のテモテへの手紙で述べた通りです。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(2テモテ4・2)

派遣された人は、福音を携えて行きます。私たちも今日、この聖堂から派遣されていくのです。「大安」の日も「友引」の日も「仏滅」の日も、私たちがすることはたった一つ、イエスを拠り所にして日々を生きる。これです。この一つを携えて、今週の生活に戻っていきましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼写真の掲載が間に合わなかった週が何度かあり、それを繰り返すうちにテーマの重複さえ起こってしまった。5月13日以降の写真が閲覧できるようになったのでお知らせ。長く放置してしまい、大変申し訳なく思っている。
▼今週の「六曜」の由来は大変勉強になった。お寺の坊さんに聞いても「友引」が仏教の教えでないことは明白である。陰陽道とか民間信仰を信じることと、自分が所属する宗教を信じることと両立できるか、考える場を作ることができた。
カトリック陰陽道とか民間信仰を受け入れながらのキリスト教信仰を両立させたりはしない。カトリック信者はカトリックの教えに立って生きる。それだけである。そこをハッキリさせることができてよかった。そして、誰もが宣教できるパズルの一つを持つことができた。これまで埋めることができずにいた部分を、確実に埋めるピースの一枚だと思っている。
▼今週は涼しい場所を見つけた猫の写真を掲載するが、本当はゴーヤの竹垣をすぐにも見せたい。花が咲き、「もうすぐ」と知らせてくれている。猛烈な日差しの中で、青々と茂るゴーヤの葉は、それだけで涼しさを感じさせている。
▼大阪にはいつ以来だろうか。天国に行った人たちと結びつく事情で大阪に行ったとき以来か。あまりはしゃいで行くわけではないが、大阪はなかなか足を運ばない場所なので、楽しみにしている。特に補佐司教に叙階される被選司教は、大のタイガースファン。舌戦でこれからも阪神−広島戦わせたい。

† 神に感謝 †

年間第14主日(マルコ6:1-6)

まず、この度の台風被害に心からお見舞い申し上げます。「なぜこんなことが」と言いたくなるような災害でした。慰めと、励ましをイエスに願いたいと思います。

今週の福音朗読箇所は、故郷のナザレでイエスが受け入れられない現実を弟子たちが見ることになります。日本では「故郷に錦を飾る」と言ったりしますので、弟子たちはイエスの活動を、故郷の人々が手放しで歓迎するだろうと思っていたかもしれません。

ところが、事実は正反対でした。「誰それの息子が、何を偉そうに」そんな反応だったのです。イエスの働きぶりを、故郷の人々は自分たちの知っている知識と結びつけました。人々の驚く姿は今週の朗読の大切な鍵なのですが、驚きが信仰には結びつかず、かえって疑いを生む結果となりました。

先週、一連の奇跡はペトロの信仰告白に繋がる出来事として見ることもできると言いました。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(6・5-6)今週の出来事は、弟子たちを失望させ、なかでもペトロの信仰を挫く危険もあったと思います。

ペトロは今日の出来事でも信仰を失わなかったのでしょうか。期待をくじかれるとき、人はだれでも自身を失い、失望するものです。私だってそう考えます。けれどもペトロは、故郷で冷たくあしらわれたイエスに、従い続けたようです。

最近二つの貴重な体験をしました。改めてカトリックの信仰は素晴らしいと思いました。一人の御婦人は、楽しみにしていた日を迎えようとしていましたが、その日を延期されてしまいました。ふつうであれば、落胆し、恨みに思うかもしれません。けれどもその人は、「わたしの償いが足りないので、延ばされたのでしょう」と事もなげに答えました。

その人の様子は逐一聞いていたので、いよいよその日が来ると思っていたのです。「がっかりしているだろうから、慰めてあげよう。」そんな気持ちでしたが、その御婦人はむしろ、延期されたことを神さまのお考えに違いないと結びつけたのです。こんな人と出会うことで、私たちは信仰を深めてもらうのではないでしょうか。割り切って考えることの多い私も、その受け止め方に頭が下がりました。

もう一人は、先週出血の止まらない女性を説教に取り上げましたが、そのミサの帰りに私のスータンの裾に触れて帰った御婦人がいたのです。「あの人は、どうしてあんなことしたのだろう」と、さっき朗読した出血の止まらない女性の箇所と御婦人の行動とを結びつけることができませんでした。しかしこの御婦人は、私のスータンの裾に触れて、「神さまがきっと良くしてくださる」と信じ、黙って帰っていったのです。

驚くべきことが起こりました。調子が良くなったと、後日御礼を述べに御婦人が司祭館に来たのです。調子の悪かった人が司祭館にまで御礼に来るのはよほど嬉しかったのでしょう。私は先週裾に触れた理由がやっとわかり、私も御婦人の調子が良くなったのを喜び合いました。私を道具として、イエスの力が御婦人に届いたのだと思います。

エスの故郷ナザレで、人々はイエスを驚きをもって迎えました。驚きは、大切に温めると信仰に向かっていきますが、粗末に扱うと疑いのもとになります。故郷の人々は自分たちが感じた驚きを粗末に扱ってしまい、イエスを疑いの目で見たのです。しかし弟子たちは、イエスの驚くべきわざを大切に温めました。

私たちがわからなくても、きっとそこには何かが込められているに違いない。私の体験談で話した二人の人も、自分の身に降りかかっていることを身の回りにある答えで片付けようとせず、もっと大切な意味が込められていると考えたので、神さまが答えてくださいました。

「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(6・3)故郷の人々は簡単な答えに結びつけたために、イエスを見誤りました。弟子たちはその場ではわからなくても、答えがわかるまで驚きを温め続けたのです。そのおかげで、ペトロはイエスへの信仰を告白できたのでした。

私たちの周りにも、「なぜそうなるのか」と驚き怪しむことがあるかもしれません。「神さまはおられるのか」とさえ思うかもしれません。簡単な答えにすがろうとすれば、私たちはほんとうの意味を見つけることなく、失望したり恨みに思ったりするのです。

神さまが私たちに見せているのは、「知恵の輪」のようなものではないでしょうか。答えは確かにあるのですが、簡単な答えに結びつけようとしても決して解けないのです。「こうに違いない」と思ったことすら横に置いて、神さまが示そうとする答えにたどり着かなければなりません。神さまの示そうとする答えを知るまで待てない人は、知恵の輪を無理やりこじ開けて勝手な答えを出すでしょう。

そうではなく、神さまが示そうとする答えはかならずあるのだから、納得して神さまの答えを受け入れる準備が整うまで待ちましょう。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」(6・2)問い続けるなら、神さまが示そうとする答えに私たちもたどり着き、納得してその答えを受け入れることができると思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼サルテリオの演奏はとても良かった。良いものに触れると、良いものが生まれてくるのかもしれない。終わりのあいさつのときに、「この教会は100年の歴史を刻んできました。1日も欠かさずこの聖堂は起こった出来事を記録して100年を迎えました。今日のこの日も、この聖堂は素晴らしい楽器を、その音色を記憶したと信じています」と言った。
▼このあいさつは、自画自賛になるが、準備して出てくるものではないと思う。良いものに触れて、生まれたものだと信じている。説教で触れた人も、「神さまが引き合わせてくれた人」「必ず出会うことになっている人」だと思う。
▼人との出会いが人を育てる。出会った人のことを記憶し、体に刻んで人は成長していく。人生は無制限に長くはない。出会う人は限られている。出会う人に育ててもらうためには、その人の前に身をかがめるべきだと思う。耳を傾けるべきだと思う。
▼韓国語で最近はちょっとしたことが言えるようになった。「今日は長崎に出かけます」「今から病院に(銀行に)行きます」韓国語で用件を言われた相手は目をまん丸くしているが、それを見るのも楽しい。ゆくゆくは、韓国語のミサの共同司式に並びたいものだ

† 神に感謝 †

年間第13主日(マルコ5:21-43)

マルコ福音書4章35節から8章26節は、一連の奇跡物語です。これら一連の奇跡は、それぞれ癒やされた人の物語であると同時に、ペトロの信仰告白を引き出すための出来事でもあります。私たちも、物語を読むことで、イエスへの信仰を告白する、信仰を宣言する機会としたいと思います。

7月3日、聖トマスの霊名のお祝いを今日開いてもらうことになり、感謝申し上げます。祝賀会の時は、寸劇をしようと思っていますので、楽しみにしておいてください。また「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されました。私たちはこれからも誇りを持って、受けた信仰を守り継いで行きたいものです。

7月1日は、日付にこだわって考えると「福者ペトロ岐部と187殉教者」の記念日です。東京大司教区ではいろんな記念行事を計画しているようですが、長崎では特別な行事は組まれていません。なにか一つでも、ということで188殉教者の取り次ぎを願い、列聖を求める祈りが届いています。ミサの終わりに唱えて、各自持ち帰ってください。身近な人に配りたい人もいるでしょうから、出入り口にカードを置きますので、ご利用ください。

主任司祭は車を去年の5月に「カローラフィールダーハイブリッド」に買い替えましたが、1年ちょっと乗ったところで油断が生じたのでしょう。佐世保市総合病院の立体駐車場の中で対向車と離合するときに柱で車を凹ませてしまいました。

私は降っていて、相手は登ってくるところでしたが、油断があったのでしょう。大きく左折して対向車をかわそうとしたら後部座席、左のドアを柱に押し付けて、ドアが凹んでしまいました。興味がある人は車庫の扉を開けて見に行ってみてください。

がっかりしましたが、ちょうど総合病院での出来事でしたので、入院手続きを取って、明日から入院させることにしています。その間は、長崎に行く用事のときでも軽自動車で行かなければなりません。ただし、軽トラックでは行かないことにします。軽トラックで大司教館に停めていたときに、「ここは大司教館に用事のある人が利用できる駐車場です。速やかに移動させてください」と張り紙をされた経験があるので、今回は軽トラックでは行かないことにします。

さて与えられた福音朗読は「ヤイロの娘」と「イエスの服に触れる女」の二つの奇跡物語です。私はそのうちの「イエスの服に触れる女」について少し考えてみたいと思います。出血の止まらない女性は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」(5・28)と固く信じて、イエスに近づいていきます。

それにしても不思議なのはイエスの言葉です。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた。」(5・30)

なぜ、このような投げかけをしたのでしょうか。群衆がイエスに押し寄せていても、「いやしていただける」と固く信じて近づいてくる女性がこの中にいると、イエスはご存知だったはずです。それだけの決意をした人であれば、鬼気迫るものが伝わるはずです。なぜイエスは、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われるのでしょうか。

もし、イエスがうっかりしていたとしたら、私は慰められます。服に触れるまで、自分の内から力が出て行くまで気づかなかったのであれば、私は慰められます。イエスさまでもうっかりすることがあるのだな。私が車をうっかりぶつけるのも無理ないよな。そう思うのです。

「わたしの服に触れたのはだれか」と言われたのは確かです。うっかりしていたから確かめようとしているのでないとすれば、どんな狙いがあるかを探す必要があります。それは、ペトロのためだったかもしれません。弟子たちが「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」と言ったことになっていますが、ペトロが代表して言ったのかもしれません。

弟子たちの考えをまとめると、「群衆が押し迫っているのでだれが触れたか分からない」となりますが、イエスが示した答えは、「群衆が押し寄せている状況でも、固い決意で願い求めている人に恵みは届く」ということです。仮にイエスがうっかりしていたとしても、イエスから力が出て行って、その人をいやしてくださるということです。

私たちに当てはめてみましょう。私たちは自分たちの願いが届くのは、何かのことで目に留まるから、抜きん出ているから叶えてもらえると思うかもしれません。特別なことなどない願いは、誰の目にも留まらないし、神にも取り上げてもらえないと思っているかもしれません。

今週イエスが示してくださったのは、人々の目には見分けもつかない願いであっても、イエスは必ず叶えてくださるということです。私たちの願いはいろいろですが、どんな願いも、誰の目にも留まらない願いであっても、神は目を留めてくださるということです。

神が目を留めてくださるなら、神は答えてくださいます。「神は必ず、目を留めてくださる。」中田神父は、これまでその体験をいくつも積みました。さまざまな病人を見舞い、神のもとへ旅立つ場面に立ち会い、神が目を留めてくださる姿を見てきたのです。私が願ったとおりではないかもしれません。ですが神が目を留めてくださり、神が与えてくださる答えは、十分信頼できます。

あとは、イエスの示した答えに私たちがどのように動くかです。イエスの示した答えを、人々に告白する、宣言すること。これが私たちに求められています。イエスは必ず答えてくださいます。そして、私たちに示されたイエスの答えは、十分信頼できます。この気持で新たな一週間を過ごしてまいりましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼「ひらどちくしさいかいぎ」を変換させたら、「平戸筑紫再会議」と表示され、「たいした変換だなぁ」と舌を巻いた。すぐに学習して「平戸地区司祭会議」と変換するようになったのだが、しばらくは笑える変換とおつきあいすることになりそうだ。
▼今年もありがたいことに霊名のお祝いをしていただいた。霊名のお祝いをしてもらうことで、霊的な家族の絆を確認できる。祝ってくださる人がいて、参加してない人も後でその様子を聞いて、霊的な家族は一致して喜び合う。私たち田平教会家族は、時にこのような形で家族のカタチを確認する。
▼祝賀会で、簡単な寸劇を行った。示談金詐欺である。私たちは案外「自分は詐欺には引っかからない」と思っているが、きっと司祭でさえも、巧妙な罠には騙されるのだと思う。そのあたりを滑稽な劇にしてみた。あとは役者の演技次第か。
▼「長崎と天草のキリスト教関連遺産」がユネスコ世界文化遺産に正式に登録された。長崎教区が関連資産を統括しているが、赴任している主任司祭が長崎教区の総意を表しているかは別問題かもしれない。負担に感じている小教区、小教区の主任司祭もいると思う。
世界遺産が重荷とか負担とならないように、ぜひ知恵を結集してもらいたい。案内する人が必要だし、地元の理解はこれまで以上に必要だ。世界遺産と結びついた巡礼の形でこれまで以上に訪問者がやってくる。活性化にどう結びつけるか。私たちも大いに関心を持っている。

† 神に感謝 †

洗礼者聖ヨハネの誕生(ルカ1:57-66,80)

今年は洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日6月24日が日曜日と重なりました。祝日が日曜日と重なるとその年は暦から消える中で、イエスの先駆者となった洗礼者聖ヨハネの誕生は特別です。ほかにも聖ペトロ聖パウロの祝日が日曜日と重なったときも特別扱いです。洗礼者聖ヨハネに焦点を当てて、今週の学びを見つけることにしましょう。

今週の朗読で目につくのは、ヨハネの誕生を喜ぶ周囲の人々と、両親の喜びとでは見ているものが違うということです。人々は、子どもに恵まれない夫婦を神が大いに慈しまれたと喜びました。両親は、我が子を前に、「主の前に道を整える預言者」が生まれたと見ていたのです。

誕生したことに目を向ける周囲の人々は、当時のしきたりに従って子どもに名前をつけようとします。彼らの目には、子どもに恵まれたということ以外は見えていなかったからです。ところが両親は、神の計画に沿った出来事だから、神の計画に沿った名前をつけなければならないと理解していました。「名はヨハネとしなければなりません」「この子の名はヨハネ」眼の前の子どもを、単に赤ん坊と見ている周囲の人々と、預言者と見ている両親とでは、見えているものが違っていたのです。

何が違っていたのでしょうか。両親には、見えないものが見えていたのです。人々が「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」(1・61)と言ったとき、周囲の人々には見えていないものを見せてもらっている。そんな静かな喜びに満たされていたことでしょう。

見えないものを見る力を「信仰」と言い換えても良いでしょう。主の天使から我が子の誕生を予告されたとき、受け入れることができませんでした。主の天使が見ているものを、ザカリアはその時点で見ることができなかったからです。見えないものを見る力、「信仰」が足りなかったのです。そのためザカリアは神によって口がきけなくなりました。

今ようやく、ザカリアはエリサベトとともに主の天使が予告した世界が見えるようになったのです。単に我が子が与えられたというだけではなく、イスラエルの民に「主に先立つ預言者」「主の道を整える者」が与えられたことを見て取ったのです。

見えないものが見えるとき、信仰はより一層深まります。ザカリアは主の天使の言葉を疑い、口が聞けなくりましたが、今ようやく見えないものが見えるようになり、信仰が深まり準備が整ったので、神を賛美し始めます。

ここで見逃してはいけないことがあります。父ザカリアは「口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」(1・64)となっていますが、これは日本語の翻訳がそうなっているのであって、見えないものを見るためには、もう一歩踏み込む必要があります。この部分を元の言葉であるギリシャ語に近い訳をすると「口は開かれ、舌がほどかれ、神を賛美して言った」となるそうです。この違いにお気づきでしょうか。

違いは「口が開き」と「口が開かれ」です。「口が開いた」これだけですと、今まで内面の問題などで言葉を失っていた状態から回復して語りだしたように感じます。当時周囲の人々にはそのように見えていたかもしれません。

しかし「口が開かれた」という意味であれば、その向こうに「口が開けないように仕向けた方」がおられて、その方がザカリアを赦し、赦された証しに口が開かれたことになります。その御方とは「神」であって、ザカリアはかつての疑いの罪がようやく赦されて、神を賛美し始めたということです。

ザカリアにとってこの賛美は、見えないものが見えるようになった賛美、信仰を深めてもらったことへの賛美でした。私たちも説教の結びは、見えないものを見せてもらったことへの賛美で終わりたいのです。

では、洗礼者聖ヨハネの誕生は私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。主の道を整える預言者が私たちにも与えられたということです。人々に主の道を整える、その日がやってきたということです。当時そのような機会に恵まれただけではなく、今も私たちを通して、主の道を整える、その日が来ているということなのです。

これを、私たち誰もが知っている言葉で何と言えばよいでしょうか。私が言わずとも、ここにいる皆さんが声に出してくれたなら、説教を閉じても構いません。どんな言葉が当てはまるでしょうか。口は開いたままで、思い浮かばないでしょうか。おそらくこの言葉にたどり着くと思います。ミサ中の言葉です。「主の死を思い、復活をたたえよう。主が来られるまで。」

ヨハネの誕生を通して、主の道を整える時代がやってきたと言いました。今の時代、誰が主の道を整える人なのでしょうか。主任司祭でしょうか。修道院のシスターたちでしょうか。そうかも知れませんが、もっと身近な場所では、ここに集まっている皆さんお一人おひとりが、「主の道を整える預言者」なのではないでしょうか。

たとえば家庭で、日に三度の食事を頂いています。時には来客も交えて、楽しい食事かもしれません。その食事を、主の道にかなったものに整えるために、「食前の祈り」をします。誰が「食前の祈り」を唱えるのでしょうか。主任司祭が呼ばれて唱えるのでしょうか。

日々の生活。朝が来て、夜で一日が終わります。一日の始まりを主の道にかなったものにするために「朝の祈り」を唱えます。誰が「朝の祈り」を唱えるのでしょうか。まさか、修道院のシスターが呼び出されて唱えるのでしょうか。

十分、答えはわかっていると思います。世に対して、そして世の終わりまで、「主の道を整える預言者」となるのは私たち一人ひとりなのです。今週洗礼者聖ヨハネの誕生に選ばれた朗読から、ぜひ見えないものを見抜いて、生活に活かしてください。見えないものが見える信仰の目を常に磨いてくださるよう、主に願い求めることにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼あと50回メルマガを配信すれば1000号かぁ。予想はしていたが、実際にこんな日が来るとは。毎号の積み重ねとは言え大したものだ。私が取り組んだことで1000回続きそうなのはこのメルマガしかない。大抵の習い事は1年も続かなかったから、このメルマガ1000回はその日には自分で自分を褒めてあげよう。
▼実はこの文章を書くための日本語変換はGoogle日本語という変換ソフトを使用している。先週のメルマガの直後に、「こんな日本語変換ソフトもあります」と声をかけていただいた。昨日今日のことで評価はできないが、これからしばらく使い続けてみたい。
▼面白いと感じるかどうかわからないが、ミサの式文の中には「主よ、あわれみたまえ」とか、「感謝したてまつる」とか、通常の会話では使わないような用語がけっこう頻繁に出てくる。現代であれば、「主よ、どうかあわれみを」そして「感謝します」となるところだが、典礼の中では古い言葉が残っている。
▼ただ今韓国語のミサ儀式書を韓国人の神父様の手ほどきで勉強し始めているが、韓国語のミサの中にも、日本語で言うところの「〜たまえ」のような「古典的な表現」が多数あるそうだ。言葉を勉強するときは直接先生に習うのがベストだが、それができなければ辞書に頼ることとなる。ただ辞書は古典的な表現にまで気を配って教えてくれないと思う。そこまで辞書に期待するのは酷である。
▼だが面白いところでこの溝を埋めてくれた。朝鮮王朝ドラマだ。「国王」に対する言葉は特別な言い回しが多くなる。それが、案外韓国語のミサを理解するのに役に立っている。「チュニムケソ(本当はハングルで表記したいのだが)」に繋がる「チョナケソ」とか、「〜ソソ」のような表現は、ドラマから先に学ぶことになった。

† 神に感謝 †

年間第11主日(マルコ4:26-34)

ミサの中で説教の時間は、ミサが長くなったり短くなったりするのに最も影響する要素です。思い込みかもしれませんが、大司教様が説教するミサと聞けば、長くなるかなぁと想像してしまうものです。以前お話ししたように今日私はミサのあとすぐに福岡に行くので、長い説教はしません。

今週の朗読で、二つのたとえが語られています。神の国を当時の人々により親しみをもって考えてもらえるように、「成長する種」のたとえと「からし種」のたとえに当てはめたのです。これらのたとえは、最終的には神の国が種まかれると、ひとりでに実を結ばせることを教えてくれます。人間の計算通りにではなく、知らないうちに、ひとりでに実をつけるのです。

植物の種がどんなに小さくても大きく実をつける。このように神の計画も初めはどんなに小さく見えても、必ず大きく実をつけるということです。私たちは献堂百周年の実りを見ましたが、始まりは献堂百周年の祈りを唱えたところからではなかったでしょうか。一回の祈りそのものは、それこそゴマ粒のような小さな取り組みでした。けれどもたくさんの人に感謝される実りとなりました。これからもたくさんの実をつけることでしょう。

これほどの大きな実りを喜び合えたカギは何でしょうか。私は、始まりとなった献堂百周年の祈りの中に、「実を結ばせたい」という神の思いが込められていたからだと思います。

祈りを作ったのは中田神父かもしれません。けれども中田神父の中には、ここまでの実りを予想はできませんでした。最初から、ここまでの実りを思い描くことができたのは、神お一人ではないでしょうか。

小さなものに過ぎなかった「献堂百周年の祈り」に、皆さんが空気を吹き入れてくださり、神が膨らませてくださったのです。どんなに練り上げられた計画も、必ず成功すると私たちは断言できませんが、出発点に神の思いが込められた働きは、鳥が巣を作るどころではない、すべての人が憩いを見出すほど大きな実りをもたらすのです。

そこで私たちが学ぶべきことはこうです。これからなそうとするその計画に、神の望みは込められていますか。その計画は神の望むことに向かっていますか。ここさえ間違いがなければ、人間の働きが不足していても、神がその計画を完成させてくださいます。

神が計画の出発点から立ち会っておられた出来事であれば、人間の協力がどんなにみすぼらしいものであっても、計り知れない実を結ぶのです。私たちはこの点を信じ、人にもそのように語れる者でありたいと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼なかなか間違えないミスをした。「年間第10主日」を「年間第11主日」で発行してしまった。あとで気付いて、ブログは変更したがメルマガは癖で即時発行をしてしまうので、もう一度出すのが面倒で何も連絡入れなかった。
▼ミスはこれだけかと思ったら、もう一つ申し訳ない誤変換を見つけた。酒井被選司教様が教鞭をとっておられた学校を「聖堂学園」と表記していたが、正しくは「精道学園」である。完全な誤変換。酒井被選司教様はじめ、関係各位にお詫び申し上げる。間違いは認めるが、日本語変換ソフトが幼稚なのだと言い訳したい。気づくことがほとんどだが、考えて変換してないだろ!と言いたくなる誤変換が多いのだ。
▼やはりマイクロソフトの日本語入力ソフトはどうしても不満が残る。お金はかかるが、ジャストシステムの日本語変換ソフトを買うべきかもしれない。あー、カネが。ソフトを一本購入すれば何台ものパソコンがその恩恵を受けていた時代が懐かしい。
▼もちろん権利関係なので尊重するが、パソコンに投入したお金も馬鹿にならない。しかも私の使い方が乱暴なのか、機械そのものが長くもたない。そのたびにデータを引き継ぐのでエネルギーを大量に消費する。パソコンは人間をもっと生産性のある仕事に向けてくれるものだとばかり思っていたが、どうもそうとばかりは言えないらしい。
▼データと言えば、どうしても、どうしても信じられないのだが、エクセルでずっと記録していたお金の管理台帳が3か月分吹っ飛んでしまった。つい最近まで毎週記入していたファイルなのに、本体のファイルは見つからず、ショートカットファイルだけが残っていた。本体ファイルはどこに行ったのか?
▼少し前にも、パソコンの中身がフォルダごと消えたことがあった。よく調べたらマウスでつまんでほかのフォルダに移動させていたのだが、細かい操作をする中で間違ってフォルダを移動させたのだろう。そういう考えられないミスをするくらいだから、うっかり右クリックしてショートカットだけになったのかもしれない。データは保険をかけましょう(笑)

† 神に感謝 †

年間第10主日マルコ(3:20-35)

一連の大きな祭日が終わって、年間の主日に移りました。今週年間第10主日に選ばれた福音朗読個所に、「これはイエスが語るような言葉だろうか」と思わせる箇所があります。私たちの器が小さくて、イエスの言葉を理解できない場合は、私たちの思い込みをあっさりと捨て、もっと大きな器を神に願い求める必要があります。

枢機卿様となられる大阪の前田万葉大司教様に、二人の補佐司教様が与えられることとなりました。酒井俊広被選司教様と、アベイヤ被選司教様です。私は酒井被選司教様とは十年来の付き合いがあります。新司祭のころから、当時精道学園の先生だった酒井神父様と、毎週のようにテニスをしていました。雨が降っても室内のテニスコートを探すくらいのテニス仲間でした。

また、私が太田尾教会の主任司祭となってからは、わざわざおいでくださって、ボートでの釣りに出かけたりもしていました。海の魚はお客さんには親切なのか、私よりも酒井神父様がよく釣っていたような記憶があります。

このたび司教に叙階されるということで、お祝いのメールを送りましたら、叙階式においでくださいとのお誘いを受けました。日程が調整つけば、喜んで見届けに行きたいと思います。またご本人から、黙想会の説教師を探すのに苦労しているなら、どうぞ私をお使いくださいと言っていただきました。黙想会の謝礼をどうするかという問題がありますが、考えてもいいなぁと思っています。

司教に選ばれる方々は、東京におられる教皇大使から、「あなたは補佐司教に司教に選ばれました」と伝達されるわけですが、どうやら酒井被選司教様にとっても全く予想だにしなかったことのようです。多くの方に挨拶として発送した手紙を読むと、司教職にふさわしくないことは誰よりも自分自身がよく知っている。けれどもこの小さな自分を使って神は大きなわざを示されるのだろう。そう思って引き受けたというようなことが書かれていました。

酒井被選司教様にとっても、神の計画を知るために、自分は器ではないと思っていても、神の望みが自分の思いを越えているときは、あっさりと自分の器を捨て、もっと大きな器を神に願い求める必要があったのでしょう。神さまが与えてくださるより大きな器に植え替えられて、より大きな仕事ができることを願っていますし、できれば叙階式を見届けて、被選司教様のために祈ってあげたいなと思いました。

福音朗読に戻りましょう。初めに私が「これはイエスが語るような言葉だろうか」と思ったのは次の箇所です。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(3・27)

これは強盗のすることであって、イエスはまるで強盗の仕方を手ほどきしているかのように聞こえます。何回もこの朗読個所に当たったでしょうに、今の今まで疑問にも思いませんでした。皆さんもこの個所をミサの中で、自分で聖書を読む中で聞いたり目にしたりしたことでしょう。疑問に思わなかったでしょうか。

そこで、私たちの思い込みという器をいったん捨てて、より大きな器でものを考えるようにしましょう。「強い人を縛り上げて、家財道具を奪い取る」と言うのですが、このたとえを面と向かって話しているのは「彼は汚れた霊に取りつかれている」と言っている人たちに対してです。

もし「強い人」が、「律法学者」のことだとしたらどうでしょう。イエスの眼に彼らは群衆を知識で抑圧している人々に見えていたかもしれません。すると、「家財道具」とは抑圧されている群衆のことで、律法学者を縛り上げなければ、取り戻すことができなかったのではないでしょうか。

おそらくイエスは律法学者に、「あなたたちの私への非難は全く当てはまらない。あなたたちが家財道具と思っている群衆を、私はあなたたちから取り上げる」と、警告を発していたのでしょう。イエスのたとえの中に、強い警告が込められていると考えれば、イエスがあのようなたとえをなされたことも理解できるのではないでしょうか。

朗読の後半についても、「イエスの母、兄弟」とは誰か、より大きな器に身を置いて考えさせようとしている、そう考えると理解できます。決して、家族を軽んじても構わないと言っているのではありません。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(3・34-35)神の御心を行う人は、人に対して果たすべき務めを決して見誤ることがないのです。

冒頭、酒井被選司教様と私の交友に触れましたが、酒井被選司教様は所属しているオプス・デイというグループの中でも中心的なメンバーでした。所属しているグループは家族のようなものです。しかし、さらに大きな器に身を置いて働くことを教皇様に願われて、決断をしたのです。オプス・デイというグループの中で没頭して働こうとしていた神父様に、イエスは「周りに座っている人々を見回してごらん。『ここにあなたの母、あなたの兄弟がいるよ』」と言われたのだと思います。

誰にとっても、自分の見ているものが正しく見えるものです。しかし神は、時としてより大きな器に私たちを移し替えて、違った見方を示し、ご自分に従うように招くのだと思います。私たちはその際、執拗に自分の見方にしがみつくべきではないのです。時にはあっさりと自分が今いる器を捨て、より大きな器を受け入れる必要があります。こうして神の国は広がっていくのです。

神は私たちの日常の関わりを変えてでも、より大きなものの見方を身につけさせ、宣教の担い手とすることがあります。神の招きに大きく心を開き、新しい景色の中で、神の使いやすい手足となっていきましょう。そのための恵みを、このミサの中で願うことにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼日本の教会が大きく動いているような気がする。大阪に二人の補佐司教が選ばれた。さいたま教区にも五年ぶりに教区長となられる司教が選ばれた。説教で述べた通り酒井被選司教は旧知の仲であるので、ぜひ叙階式に参列してお祝いを申し上げたい。
▼最近の動きに関連して、ちょっとした勘違いを経験した。ある小教区内の病院に長らく賄いとしてお世話してくれた信徒が入院していることを聞き、お見舞いに行くことにした。管轄の小教区があるのでそちらの主任司祭に伺いを立ててから行こうと思い、連絡を取った。
▼すると次のような返事であった。「私は新潟にいます。たまたま母親が司祭館の留守番に来ているので、よかったらお茶でもどうぞ。○○病院のお見舞いの人もよろしくお願いします。」「新潟にいます。」私は勘違いをしてしまった。最近新潟の司教が東京の大司教となられて移られたので、新潟の教区長は空席である。さては指名されて、下見に行ったのか?と思ったのだった。
▼後で話を聞けば笑い話だった。その神父様はとある全国会議で長崎教区担当司祭として新潟に来ていただけで、大それた話ではなかったのである。ただ、「それもありだなぁ」と思ったわけで、笑い話が現実になることもゼロではないと考えている。
▼確かに体制は整いつつある。しかしそれと日本での宣教が韓国のような勢いをつけるかということとは別の話だ。空気を入れてもしばらくすれば走ることができなくなるタイヤのように、どこか目に見えない穴があって、空気が抜け、何度試しても刷新されない。どこにその目に見えない穴があるのだろうか。

† 神に感謝 †

キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)

キリストの聖体の祭日を迎えました。この祭日に選ばれた福音朗読を通して、私たちが神の望みや神の思いに触れるために、どのような心構えが必要なのかを考えてみましょう。そのヒントとなる言葉は、弟子たちがイエスに尋ねた「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」(14・12)だと思います。

最近野球を安心して観ることができません。楽勝で勝ったと思った日の試合が、寝る前にスポーツニュースを確認したら終盤7点入れられて逆転負けを食らっていました。1イニングに10点取られて大敗した日もありました。ここは一つ、応援しているチームに喝を入れに行く必要があると思っています。

ということで、6月17日は応援しているチームに喝を入れに行ってきます。この日は何も予定を引き受けることはできませんので、当然司祭館のチャイムを鳴らすこともダメですし、ましてや誰かが死んでもお世話できません。よろしくお願いします。

私が応援しているチームが序盤から混戦を抜け出せないことも、見方を変えれば「セ・リーグ全体が面白くなる」と見ることもできます。私の見方だけを正解と思うなら、それは間違いです。答えはしばしば、別の見方に立つときに見出すものです。

さて福音朗読ですが、考えるヒントに選んだ「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」この個所は、だれの立場に立って考えることができるでしょうか。「どこへ行って用意いたしましょうか」という問いかけを見る限り、これは弟子たちの立場でものを言っているのだと考えるかもしれません。

ですが、すぐ後に続くイエスの指示を読めば、考えは変わるでしょう。「その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』」(14・14)

弟子たちへのイエスの指示は、明らかにイエスの立場に立って動くことを求めています。では少し戻って、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」これもまた、弟子たちの立場に立って読み解くのではなく、イエスの立場に立って読み解く必要があるということです。

そこで翻訳の問題を考えてみます。元の言葉では、よりはっきりとイエスの指示に沿って動いていると読み取れる可能性があります。そこで、元のギリシャ語にできるだけ近い日本語にすると、「あなたが過越の食事を食べるために、われわれは行ってどこに準備するようにとあなたは望みますか」となるそうです。これだと、なるほどイエスの指示を仰ぎながら行動していることが読み取れます。

弟子たちがイエスに仰いだ指示。これが今週私たちの学びでもあります。「あなたが過越の食事を食べるために、われわれは行ってどこに準備するようにとあなたは望みますか。」もちろんそのまま当てはまるわけではありません。込められている思いを汲み取るのです。次のようにまとめたいと思います。「あなたの望みに応えるために、私たちにどこでどんな働きをお望みですか。」

ここには「あなたのために私がこうしてあげましょう」といった思いは取り除かれています。お世話好きの人であれば、ついこのように言いたくなるところです。けれども弟子たちがあえて「私たちがこうしてあげましょうか?」と言うのを控えた、そこを見落としてはいけません。常に、イエスが何を望むのか、どのようにすることを望むのかを考えるべきなのです。

私は過去に、ある人の取った行動をこっぴどく叱ったことがあります。教会の正面に、石を掘って作られた御像が設置されていて、私が巡回教会のミサから帰ってみたら、一人の信徒がその御像にペンキ塗りをしていたのです。もちろん主任司祭の了解もなく、独断でした。「どういうつもりだ」と、顔を真っ赤にして叱った記憶があります。

本人は、汚れが目に付くのでペンキを塗ろうと思ったそうですが、たとえて言うなら墓石に汚れが付かないようにペンキを塗ったようなものだったのです。今思うと、思い止まらせるためにもっと上品な言葉を使うべきでしたが、その時は頭に血が上ってどうにもなりませんでした。

たまに、田平教会でも同じ気分になることがあります。本人は良かれと思ってしているのかもしれませんが、主任司祭に報告してからなすべきことを、自分の判断だけで実行しているのを見聞きします。がっかりします。そしていまだに、良かれと思っているのか、何の報告もありません。

もっと、一人ひとり考える余地があります。「あなたの望みに応えるために、私たちにどこでどんな働きをお望みですか。」主任司祭から「誰の許可を得てしているのか」と言われるのはある意味大したことではありません。主任司祭はいつか変わるのですから。

しかし、イエスから「誰の許可を得てそんなことをしているのだ」と言われたら、それは致命的です。自分の行動に命をもって責任を取ることになるかもしれません。「これくらいは許される」「これくらいは」自分一人で正しいと思った判断は、しばしば正しくないと思うべきです。

すべての人がイエスに問いかけるべきです。「あなたの望みに応えるために、私たちにどこでどんな準備をお望みですか。」長を任せられている人、活動団体に入って協力している人、病院に入院している人でも、イエスに問いかけるのです。そして一人残らず、イエスの望みに自分を合わせようと、日々自分をおささげしましょう。常にイエスの望みを追い求める人に、神はご自分の望みを打ち明けてくださいます。

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ちょっとひとやすみ
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▼配り終わってから「しまった」と思った話。献堂百周年記念ミサの冊子を製作して、当日使ってから持ち帰ってもらった。すべてが終了してから観想修道会に祭服を新調しようと出かけ、その時のお土産話で献堂百周年のミサの様子などを話そうと冊子を改めて読み返した。その時に印刷ミスに気付いた。
▼「田平教会献堂百周年の祈り」冒頭は「百三十年前、小さな移住信徒から始まった田平の神の民は」で始まるのだが、冊子には「百二十年前」と印刷されている。どういうことだと思ったが、もはや5月13日はすべて終了している。取り返しがつかない。
▼まさか、自分たちが間違っていない個所を間違って製版するとは思わないものだ。二度の校正を主任司祭が一人でしたが、全く気付かなかった。すべてのことを疑ってかかるくらいでなければこのミスは見つけられないだろう。実に口惜しい。
▼私が気付いた時点で、「クイズに正解したら先着五名に『烏賊墨の・・・』の本をプレゼントします」と言おうと思ったのだが、後で聞くとたくさんの人が気付き、典礼の責任者に連絡が届き、祈る前に訂正のお知らせがあったそうだ。危うく何十人も正解者が出て、大赤字になるところだった。
▼しかし、まだ安心はできない。もう一度、目を皿のように見開いて見直せば、何か見つかるかもしれない。さらなる印刷ミスが見つかったら、そこをクイズにして「烏賊墨の・・・」のプレゼントにしよう。著者の枢機卿様、必ず私が買い上げてからプレゼントしますので、ご心配なく。

† 神に感謝 †