年間第23主日(マルコ7:31-37)

「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」(7・37)周りにいる群衆の、イエスに向けた最大級の賛辞です。これ以上ないくらいにイエスを褒め称えましたが、褒めて褒め上げて、その人達はどうなったのでしょうか。

平戸地区の球技大会ですが、天気がねぇ。私が説教を準備している時点で予報を見たところ、一日中雨予報でした。仮に雨が小降りでも、風が強くて体育館の競技以外は難しそうです。私はこの前、ナイターソフトで3打数3安打しましたので、今年の平戸地区球技大会だったら3打数3安打できると思っていたのですが、残念です。

残念と言えば、私の応援しているプロ野球のチームも、マジックが減っていて、もう減らないでほしいと祈りながら試合の様子を見守っています。チームが負けているのに、マジックが減るわけです。このままでは振替休日に広島経由五島福江行きで試合観戦した時、優勝争いの終わった試合観戦になりかねません。適当に勝ったり負けたりしているのですから、他チームはぜひマジックが減るのを阻止してもらいたいです。

さて福音朗読ですが、群衆がイエスを褒め称える声を聞いて、何を考えたでしょうか。私は、「あなたたちは今はイエスを褒め称えているけれども、しばらくしたらイエスに『十字架につけろ』と言うのでしょう」そんな事を考えています。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」この言葉が、イエスに対して最高の言葉ではなく、常に変わらない言葉であるべきです。

エスが救い主ですと信じる人は、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と言うのであれば、イエスが徴税人や罪人と食事をすることも、今にも石投げの刑に遭おうとしている罪深い女性をゆるしてあげることも、最後に十字架に磔にされていのちをささげることも、すばらしいと言える人でなければなりません。けれども集まっている群衆のどれだけの人が、罪人に手を差し伸べるイエスを、十字架に上るイエスを、「すばらしい」と言ってくれるのでしょうか。

同じ問いかけは、私たちにも向けられています。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」イエスを称えるこの言葉は、私たちの言葉でもあるはずです。ですが私たちもまた、見た目に華やかな場面ではすばらしいと言えても、目立たない働きや、理解に苦しむ姿や、私たちが受け入れるのが難しい答えを示された時、同じようにつぶやくのではないでしょうか。

一切を横に置いて、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と言い切る信仰を願いたいと思います。金曜日に数々の病人を訪ねました。一人は病院を転院していました。一人は病院スタッフがかかりきりでお世話をしていたため、訪ねるのを断念しました。聖体拝領が難しい病状にある人もいました。そこまで訪ねていながら、手を差し出せずに帰っていくのは、本当に辛いものです。

「なぜこうなるのでしょうか」と、納得できずに病室を去っていきます。こんな時でも、司祭は揺るぎない信仰に立って、「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」と言えるようになりたいです。

よく考えると、司祭が病人を訪ねていくのは病人のそばまでで、病人の魂にまで訪ねてくださるのは他ならぬイエスです。ですから私は一喜一憂せず、「私はここまでしか病人に近づけなかったが、イエスは必ず慰めてくださる。この方のなさったことはすべて、すばらしい。」こう考えたいと思います。こうしたことの積み重ねが、揺るぎない信仰に結びつくのではないでしょうか。

お一人お一人に当てはめてみましょう。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」イエスをこのように称えたいけれども、現実の生活はそれを許さないかもしれません。苦しみがあり、悲しみがあり、思うようにいかないもどかしさがあります。こうした中で、「それでも私はあなたを称えます」このように返事をしましょう。

「私たちの信仰はすばらしい」とたやすく言えることばかりではありません。それでもイエスを称える。「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と称える。その積み重ねによって、私たちの目は開かれ、耳は聞こえるようになり、信仰は鋼のように鍛えられるのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会の話。毎年指導司祭を選ぶのに苦労するが、今年はあるお方に依頼したらすんなり引き受けてくださった。韓国語では「人」を「サラン」と言うが(ハングル表記できずにカタカナ表記)、「お方」となると「ブン」になる。
▼「この人」「あの人」と「この方」「あの方」は日本語でも違いが感じられるが、韓国語はなおさらだ。まぁ、そういう「お方」に依頼してみたら引き受けてもらえたということだ。
▼私は黙想会を依頼する時に、「得意なテーマはなんだろうか」と考える。もちろんその小教区が置かれている状況でより重大なテーマがあれば(前回は献堂百周年を迎えようとしていたから、献堂百周年経験者の先輩にお願いした)そちらが優先だが、得意そうなテーマをお願いしたほうが、良い黙想指導をしてもらえるだろうという考えである。
▼今回お願いした方には、得意かどうかはわからないけれども、きっと誰よりも理解しておられることについて一回分の話をお願いし、残りはおまかせしますというお願いをした。田平教会の評議会ではすでに名前を報告し、了承を得たことも伝えた。
▼「忙しいかと思ったけれども、二つ返事で引き受けてくださり、こちらが拍子抜けした」とその場で言ったのだが、ずっと予定を入れずに待ってくださったのだと思うと、本当にありがたいことである。
▼司祭館に滞在してもらうことになると思うが、問題がある。寒いのだ。私が赴任したときもそう思ったが、五島と比べると平戸は寒い。さらにこの司祭館は建物が古く、隙間風だらけ。どうしたものか。案外、信徒会館の畳の間が、快適かもしれないと思ったりもする。
▼話変わるが、土曜日に殉教公園の清掃に出かけられた皆さん、予報では曇りになっていたのに外を眺めたら弱い雨が降っている。その中で清掃をしているとしたら本当にご苦労さま。一週間清掃を遅らせて、焼罪(やいざ)殉教祭(「カミロ・コンスタンツオ神父殉教記念ミサ」のこと)前日に変更もありだと思っている。とにかく、怪我のないように、雨で濡れて体調を崩さないように、心から願っている。

† 神に感謝 †