年間第4主日(マコ1:21-28)

年間第4主日B年は汚れた霊に取りつかれた男をいやす場面が読まれました。悪魔祓いと言うと現代には似つかわしくないように思うかもしれませんが、悪霊を追い出す司祭は現代でも教皇庁から選ばれて存在します。悪霊を追い出したイエスよりも、出来事に人々がどのように反応したかに注意を向けるほうが良いと思います。

いよいよ中田神父のマラソン第一弾が始まります。今日は午前11時に北松農業のスタート地点から他の選手と一斉スタートして生向(いけむこ)バス停まで走ります。皆さんの中には一週間前の日曜日11時に、沿道に座ってわたしが走って来るのを待っていた人がいると聞きました。「神父さまはまだか」と座り込みして待ってくれたのでしょう。ありがたいことです。凍えて地蔵様になったのではないでしょうか。

この一週間、実際のコースを走って、1日おきに「タイムを計る日」「疲れを残さないようゆっくり走る日」と交替で繰り返してきました。いつも走りに出るときは悪魔との戦いでした。「今日は特別寒いぞぉ。明日にすれば?」悪魔はわたしに取りつき、わたしの足を引っ張ります。そのたびに、「黙れ。出て行け」と追い払って練習に行きました。

駅伝に出たのは好きだからではなく、賑わせのためです。ですからわたしを動かしているのは、教会と地区とを結びつけようとしているイエスさまです。与えられた区間のタイムをいちおう計りましたが、3回とも8分45秒でした。後続には申し訳ないと思っています。

一人、教会の高校生がわたしと同じ区間に出ているという話を聞いています。顔も想像つきます。わたしに免じて手心加えるとはとても思えませんが、わたしはその高校生女子のうしろ姿を見ながら、女子高生の香りをかぎながら走ろうと思います。

ラソンの第二弾は30日(火)五島市福江での司祭団10キロマラソンです。ここでは、説教台にぶら下げているポスターを胸に貼り付けて、てくてく走ってこようと思います。昔のように順位を争える速さではありませんが、かえって百周年の宣伝にはちょうど良いと思います。報告を楽しみにしてください。ついでの話ですが、マラソンに出たご褒美の休みを一日ずつください。日程は「瀬戸山の風」に載せています。

福音朗読に移りましょう。出来事を目撃した人々は驚いて、論じ合いました。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」(1・27)

皆さんは「汚れた霊」にばかり目が行くかもしれませんが、与えられた朗読個所でいちばん多く取り上げているのは「教え」あるいは「教える」ということです。数えてみましょう。「イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。」(1・21)「人々はその教えに非常に驚いた。」(1・22)「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」(同)「権威ある新しい教えだ。」(1・27)

短い朗読の中で、4回も繰り返されています。つまりこの物語ではイエスの教える姿が中心なのであって、汚れた霊を追い出すのはイエスの権威ある教えを証明する一例に過ぎないのです。

ただし中心がイエスの教える姿であったとしても、その影響が同心円のように効果的に広がっていったかというとそうでもないようです。中心であるイエスの教えるそのそばにいた目撃者たちは、「皆驚いて、論じ合った」(1・27)というのです。

たいてい「論じ合う」という場面は意見が分かれ、双方が意見をぶつけ合っているさまです。彼らはすぐ目の前でまったく新しい権威を帯びて教えるイエスを見ていながら、権威に裏打ちされた驚くべき御業を見ていながら、ああでもないこうでもないと論じ合っているのです。

エスが権威をもって教える様子、イエスの権威を裏付ける御業、これらを目撃した人々がすることは、論じ合うことでしょうか。教えるイエスに耳を傾け、教えを受け入れることです。この場面で汚れた霊だけが、教えるイエスに対してなすべきことを叫んだのです。

ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(1・24)もちろんなすべきことを果たしませんが、汚れた霊がイエスの教えに耳を傾け、教えを受け入れるくらいなら、汚れた霊はとっくに滅ぼされていたことでしょう。

そばにいた人々も、なすべきことが何かを知っていたのです。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」教えるイエスに耳を傾け、その言うことを聴く。これがわたしたちのすべきことなのです。

わたしたちは何をなすべきかをすでに理解しています。ところでわたしたちは今どこにいるのでしょうか。わたしたちもまた、教えるイエスのすぐそばに集まっているのではないでしょうか。「これはわたしのからだである」と、驚くべき御業をおこなうすぐそばに集まっているのではないでしょうか。

わたしたちも、イエスのすぐそばに集まっているのですから議論していてはいけないのです。むしろ謙虚に耳を傾け、「わたしたちはあなたの教えを実行します」と、ミサの中で答えるべきなのです。

まさかとは思いますが、こんなことをつぶやいてはいないでしょうか。「我々を滅ぼしに来たのか。」信仰のことを口酸っぱく言って、カトリック教会はわたしの生活を滅ぼそうとしているではかいかと。

はっきりさせましょう。わたしたちの生活は、いのちを与えてくだる神が留まる場所を設けて生活をしなければ成り立たないのです。神が留まるべき場所に汚れた霊を呼び込んで、自分さえよければよい、神などいらないという生活をすれば、滅びへの道をたどるのです。

「この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」わたしたちは大声をあげて、この信仰を宣言しましょう。わたしたちが選ぶことのできる生活は、「教えるイエスの言うことを聴く」この道しかないのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼地区対抗駅伝がやって来た。この文章は前日に書き上げているが、当日はまるで県下一周駅伝のように盛り上がっていることだろう。田平教会が地区対抗駅伝でこれだけ盛り上がることなどかつてなかったに違いない。だからわたしは歴史を築いたのだと思っている。
▼もちろん記録がショボいので、たいした歴史ではないが、歴史の一ページには違いない。何人かの人は地区対抗駅伝が巡ってくれば、「そういえば主任神父さんが駅伝に出てたなぁ」と昔を懐かしむ日が来ると思っている。
▼それにしても急ごしらえでの駅伝はたしかに無理があった。そのあとの司祭団駅伝も含めて、回復のためにはしばらく充電が必要だと思う。充電するためには放電してから。放電するためのいくつかの趣味や計画が湧いてきている。レースに出る前から充電の話だからレベルが知れるというものだ。
▼2月になるとどのプロ野球チームも春季キャンプだ。あー楽しみだ。あーお忍びだ。田中だ丸だ菊池だ。今年こそ。26年ぶりの日本一に手をかけてくれ。ほかの趣味には手を出さないようにして観戦ツアー代を捻出するから、ぜひ今年はファンの願いをかなえてくれ<<
† 神に感謝 †