待降節第4主日(ルカ1:26-38)

待降節第4主日です。今年はこの日が12月24日になっています。いちばん遅くやってくる待降節第4主日です。「救い主の誕生」はもう目の前です。ゆっくり構えてはいられない。そのつもりで福音朗読の学びを得ることにしましょう。

親子韓国旅行のきっかけはわたしの銀祝を田平教会で祝っていただいた時のお祝い金でした。5月にソウルの明洞に行った時、日本と気候は変わらないなと思ったので、季節も考えずに12月に予定を立てました。

旅行代理店に相談に行ってみると、「ソウルは寒いですよ〜。福岡より寒いです。寒さ対策をして出かけてくださいね」と言われました。店員にそう言われて、そのまま母親には伝えられませんでした。

旅行代理店の予約と支払いを済ませた直後でした。夜10時に実家から電話がかかりまして、「やっぱり韓国には行けない。韓国は寒いに違いない」と言ってきたのです。わたしが言わなくとも、衛星放送で世界の天気が紹介されれば、いやでも天気は目に入るわけです。

わたしは慌てまして、「いやいや。日本と気候は変わらないんだよ」と思いとどまらせようとしました。結果的に、韓国に行くまで不安は解消させることができなかったのですが、旅行を終えた後は「とても楽しかった。ありがとう」と言ってもらえました。わたしの言葉を信じてよく同意してくれたなぁと感謝しています。

さまざまな体験を積みました。言葉の違う生活、本場のキムチ、アワビのお粥、ビビンバ、烏骨鶏を丸ごと入れたサムゲタン。ほかにもミュージカル「ナンタ」の観劇、韓国王朝ドラマの舞台景福宮キョンボックン)巡り、韓国のタクシー、地下鉄、王宮衣装の着せ替え体験、明洞大聖堂でのミサ、最後は韓国式エステも体験してきました。肌がつるつるになって、出国審査の時に「パスポートの人物と別人になっている。取調室に来なさい」と連れていかれました。最後はウソです。

まぁとにかく、言葉を信じて、言葉にこの先を委ねて、抱いている不安を横に置いてついてきてくれたので、今回の親子旅行は実りあるものとなりました。言葉だけしか判断材料がない。写真もない、映像もない、そんな中で決心してくれたことに心から感謝しています。

福音朗読の「イエスの誕生の予告」の場面に移りましょう。天使ガブリエルは、ナザレにいるヨセフのいいなずけのマリアのところに遣わされました。天使ガブリエルも、神からの言葉だけを携えてマリアと向き合うことになります。天使の言葉にマリアは戸惑い、考え込むのです。

それでもマリアは、神の言葉を信じて、神の言葉にこの先を委ねて協力することにしたのです。何より、人間の言葉ではなく、神の言葉であるがゆえに、すべてを委ねることができたのだと思います。

しかしあくまでもこだわる人は疑問を持つでしょう。「天使ガブリエルの言葉は、突き詰めると天使ガブリエルの言葉ではないのか」と。実際天使ガブリエルも「これこれの言葉を、神から託されましたのでお伝えしました」とは言っていません。

わたしも、少し調べたほうが良いと思い、一か所調べ直してみました。37節の「神にできないことは何一つない」についてです。日本語訳だけだと、それこそ天使ガブリエルの言葉であって、神の言葉ではない印象を受けます。

こういう場合は、できるだけ元の言葉に近い理解を確かめることが大切です。わたしは残念ながらギリシア語はさっぱりですが、元の言葉により忠実に置き換えると「神からの言葉はすべて不可能ではない」となると解説書にありました。

この説明だと、「神からの言葉」であることをより実感できます。マリアは神からの言葉の前に、人間の戸惑いなど何の意味があるだろうかと思い直し、ありのまま受け止めようとしたのです。マリアの返事も印象的です。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(1・38)神からの言葉に、身をかがめようとしているのです。

ここで見落とせないのは、この場面、マリアが出来事の中心なのではなく、神の言葉が出来事の中心にあるということです。マリアが出来事の中心にいたなら、戸惑い考え込む彼女から神の招きに答える力は生まれなかったでしょう。神からの言葉が出来事の中心にあると理解できたので、「わたしでよければ」という協力が可能になったのです。

わたしたちが持ち帰る学びが見えてきます。中心に神からの言葉があるとき、言葉は出来事となって実現し、救いの計画が前に進みます。人間が出来事の中心にあるとき、神からの言葉は望みのままに働くことができず、出来事は実現しないのです。

わたしたちが、日ごろ思い通りにいかないとつぶやくことがあるなら、あらためて考えてみましょう。出来事の中心にわたしがいて、わたしの思いが実現しない、通じないと、つぶやいているのではないでしょうか。マリアは、神からの言葉が出来事の中心であれば、出来事は受け入れることができると教えているのです。

神からの言葉に中心を譲らなければ、いつまでたっても事態は変わらないでしょう。むしろ、マリアに倣って「神からの言葉はすべて不可能ではない」この体験を積み重ねましょう。

マリアと同じ立ち位置で出来事を見直すとき、世界は神の計画の中で着実に進んでいることが分かるでしょう。その時わたしの口にのぼるのは、つぶやきではなく賛美、不平不満ではなく感謝の言葉となるはずです。

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ちょっとひとやすみ
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▼巡回教会もない小教区で早1年半が過ぎた。振り返ると巡回教会がないのだからゆったり時間が過ぎるのかと思ったが、忙しい忙しい。何かかにか思い付いて、その実現のために走ってきた。仕事があるのは幸せとは言え、たまに海の上でぼーっとしたいものだ。
▼船には足が遠のいているが、今年は都合3回旅行ができた。イスラエルを学ぶ巡礼、韓国視察、韓国親子旅行。その間ありがたいことに緊急事態も発生せず、いったんいろんなことを横に置くことができた。田平教会の皆さんに感謝である。
▼年末年始にかけて、2018年をスムーズに迎える準備が必要になる。メルマガの型紙も一年分(せめて半年分)用意したいし、小教区報、マリア文庫、2月までの詩編を使った聖書愛読のための週ごとの解説、早めにと思うなら息つく暇もないほどだ。
▼新しい夢も出てきた。教会に隣接する土地を、教会のために使ってほしいと寄進してくれそうな流れになっている。そこが教会の土地になるなら、祈りの公園を設置したい。十字架の道行きの各留(station)を設置して、公園を歩きながら祈れたら素晴らしい。
▼たぶんそのためには、もはや個人的な趣味は断念せざるを得ないかもしれない。資金も必要だろうし、時間も投入しなければなるまい。わたしのいるうちに、と考えればいつまでも時間があるわけでもない。年が明けたら少し考えを整理したい。
▼黙想会の説教師のことが12月からちらちら頭に浮かんでは消えている。「この人に」という思いはあるのだが、果たして引き受けてくれるだろうか。とても二つ返事で引き受けてくれそうには見えない。こういう時は菓子折りか。その司祭がいちばん喜ぶものをわたしは知っている。

† 神に感謝 †