年間第26主日(マタイ21:28-32)

今週年間第26主日の福音朗読「二人の息子」のたとえは、さらっと書かれていますが疑問が残ったままです。この疑問に正面から向き合うことが、たとえをよりよく理解する鍵なのではないかと考えました。

月が替わり、9月のことはすべて忘れてしまいました。司祭団ソフトボール大会でわたしと地区長神父様が打線の大ブレーキになったことも、守備に就いているときに浦上教会のK・Y神父様から痛烈な二塁打を浴びたことも、簡単なライトフライを右手、左手、右手とお手玉して落球したことも、すべて忘れました。

いやなことはすべて置いて帰ってきたのに、なぜかわたしの手元には珍プレー賞の商品があります。守備でお手玉したのが授賞理由だそうです。いらないのでとっとと木曜会に持っていこうと思います。とにかくすべて、忘れました。

福音朗読に戻りましょう。たとえの中で父親が二人の息子それぞれにぶどう園に行って働きなさいと促します。兄は「いやです」と答えましたが後で考え直して出かけました。この兄は問題ありません。

問題は弟です。同じことを言うと弟は「お父さん、承知しました」と答えたが、出かけなかったのです。では弟が出かけなかったことを、父親はいっさい気にもかけず、問題にもしなかったのでしょうか。

エスはこのたとえを神の国に入る人になぞらえています。神の国に入るかどうかという重大な問題につながるとすれば、「後で考え直して」取るべき行動を取らなかった人々をいっさい気にもかけず、問題にもしないのでしょうか。

先週の「ぶどう園の労働者」のたとえを踏まえて考えると、むしろイエスは「後で考え直して」行動を取らない人々をいつまでも気にかける方だと思います。先週のぶどう園の主人は、最後まで、広場で何もしないで立っている人をぶどう園に送り込みました。このことを合わせて考えれば、「お父さん、承知しました」と答えたのに出かけなかった息子のうちの弟は、いつまでも気にかかっていると思うのです。

たとえから読み取れるわけではありませんが、神の国に入る人々を示そうとするたとえの中で、どちらの息子も、父親の望みに応じてほしいと願っているはずです。先週も話しましたが、ぶどう園は日没になるまでに収穫を終えるために、猫の手も借りたいほどになるのです。

本来ならぶどう園での作業は、農夫たちに任せて息子たちにはさせたりしないのかもしれません。けれども背に腹は代えられず、「悪いけれども、手伝ってくれないか」と声をかけたのではないでしょうか。

ひょっとしたら「いやです」と答えて後で考え直して出かけた兄は、最後の一時間しか働かなかったかもしれません。そして弟には、収穫も終わろうとしている夕方五時に声をかけ、「お父さん、承知しました」と答えたのにそれでも出かけなかったのかもしれません。一時間しか働かなかったとしても、兄は父親の望みに最終的には応じてくれたのですから、父親は喜んでいるのだと思います。

父親が一日の初めに息子の兄のほうに声をかけて、あとで考え直して兄が最後の一時間働いた。弟は最後の一時間になって声をかけて返事だけは良かったけれども応じなかった。もちろんそこまで書かれてはいませんが、これはわたしたちの人生の縮図なのかもしれません。

神はある人には人生の初めから声をかけて、神の望みに応じてくれるように促します。ある人は人生の最後になって神の呼びかけがあっていると感じます。早くから洗礼を受けて、教会につながっている人と、人生の終わりになってキリスト教を意識する人に当てはめてもよいでしょう。

さいころから教会に行けと言われていると、ある人は「いやだ」と感じるかもしれません。それでも後で考え直して、教会とのつながりを優先する人は、神の国から遠くない人々です。「歳を取ったら洗礼受けます」「定年したら教会に行きます」と色よい返事をして、とうとう教会のお世話にならなかった。こうなるとその人たちが神の国に入るのは、ずっと後になるのかもしれません。

いずれにしても、神の国に入る道となってくださったイエスを、ほとんどすべての人は人生のどこかで目にするのです。教会という見える集まりを通して、書物を通して、キリスト者一人ひとりを通して、招きを受けるのです。

わたしたちも弱さがあるので、ある時期は「いやです」と言うかもしれません。けれども後で考え直す。その機会をイエスは与えてくださいます。広場に何度も労働者を雇いに行くぶどう園の主人のように、何度も考え直す機会を与えて、人生全体が最終的に神の望みに答える人生となるように、辛抱強く見守っておられるのです。

「わたしたちはいざとなれば教会に戻ることができる。」もしこのように言う人がいるなら、一つだけ考えてほしいのです。「いざとなった時」は、本当にわたしが用意できるだろうか、ということです。未来を用意するのは人間ではなく、すべてを導いている神です。神が「いざとなった時」を用意してくれないなら、わたしたちが立ち返るつもりにしていた時もやってこないと思うのです。

「道、真理、いのち」であるイエスに、謙虚に従っていく人生を積み上げましょう。「いやです」と答える時期があったとしても、「後で考え直す」人であり続けましょう。わたしたちがこのような生き方を示せば、「わたしは自分でいつでも反省して神の国に入ることができる」と思い違いをしている人にも、良いお手本となることができます。

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ちょっとひとやすみ
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▼司祭団ソフトボール大会。第一試合は長崎(あ)チーム対五島チーム。互いに打ち合いで5対5の引き分け。第二試合、五島チーム対佐世保・平戸チーム。互いに打線に活気がなく、1対0で最終回に引き分けに。
▼この試合で佐世保・平戸チームの6番ライトで先発したが、捉えたと思った当たりはセンターフライ。あとひと伸びがないのは風のせいと言いたいが、力がない証拠。この試合でまずM・T神父に痛烈な二塁打を浴びる。明らかに狙われている。
▼第三試合は午後いちの試合。長崎(い)チーム対佐世保・平戸チーム。この試合は相手チームの打線が活発で、いいところに球が落ちた。その上にまたわたしの守備のライトを狙い打たれ、F・T神父のポテンヒット二塁打、仕上げは浦上のK・Y神父に痛烈な二塁打を打たれた。K・Yとはよく言ったものだ。出身教会は田平教会なのだから、ちょっと遠慮してくれよ〜。
▼バッティングは当たってはいるのだが、最後の伸びがない。この試合でも捉えた、と思った球が外野を越えなかった。もはや力任せにバットを振っても、チームには貢献できないのだろうか。
▼そんな中、R・Y神父だけは、ホームランラインが何メートルだろうが、それをはるかに越えてホームランをかっ飛ばした。しかも一人で二本である。彼の打球はたとえたら大谷選手の打球である。あっけにとられた。

† 神に感謝 †