年間第25主日(マタイ20:1-16)

今週の朗読は「ぶどう園の労働者」のたとえで、たとえに登場する主人の考え方にどこまで賛成できるかが問われています。何かが引っかかって、このたとえに登場する主人の考え方に賛成できないわたしたち。どこをどう変えていけば、喜んで賛成できるようになるのでしょうか。

18日敬老の日甲子園球場に行ってきました。感激しました。この話だけでも30分は語りたいですが、だれも喜ばないので手短に。

まず福岡空港から飛行機で伊丹空港に飛びました。飛行機で大阪に降りてみると、すでにタイガースファンがうろうろしていまして、「大変な場所に来てしまった」とつくづく思いました。周りは敵ばかりという張り詰めた雰囲気で球場に向かうバスに乗りました。

球場が近づくとあら不思議。わたしと同じユニフォームを着た人たちが続々と集結しているではありませんか。これには勇気づけられました。いちばん危険な場所に行って、優勝を勝ち取って来る。並大抵の勇気ではできないことです。

おかげで甲子園を後にするときも、誰彼問わずカープファンから「ヘーイ!」とハイタッチを求められて、気軽に応じました。若い女の子ですら、おじさんのわたしにハイタッチをしてくるのですから、どれだけ盛り上がったかが想像できるでしょう。阪神ファンの皆様、大変聞き苦しい話になってしまったことをお詫びいたします。

福音朗読に戻りましょう。ぶどう園の主人は、時間を変えながら何度も労働者を雇いに出かけています。早くから雇った労働者はきっとやる気に満ちた人たちだったでしょう。

彼らは最終的にぶどう園の主人に不平を言いました。なぜか?わたしの想像ですが、賃金をもらう頃には雇ってもらった恩は忘れ果て、「働いてやったのにどういうことだ?」と開き直っているのです。開き直る権利などないはずなのに。

その後も定期的に労働者を雇い入れます。ぶどうの収穫は一刻を争う仕事なのだそうです。ですから最終的には猫の子も借りたいくらいになります。しかしながら広場に残っているのはやる気もあまりない人たちです。

やる気を見せていたら、とっくに雇われていたでしょう。最後の人たちとは、いわば履歴書の段階ではじかれ、面接すら受けさせてもらえず「どうせ俺たちを雇ってくれる人などいない」と投げやりになっている可能性が高いのです。

しかしぶどう園の主人は、この人たちの中に飛び込んで手を差し伸べます。「あなたもかけがえのない人です。わたしはあなたに人としてまともに暮らせるだけの仕事と賃金をあげましょう。」

やる気のあるなしにかかわらず、能力の有無にかかわらず、一人ひとりをかけがえのない人として受け入れる。これがぶどう園の主人が示した気前の良さでした。

投げやりになっていた人をかけがえのない人として扱ってくれたぶどう園の主人に、最後に雇われたグループの人たちはどう思うでしょうか。ただただ、感謝しか浮かばないのではないでしょうか。

今日も見捨てられるに違いない。今日もきっと人として扱われない。そう諦めていた人の中に飛び込んで手を差し伸べる。能力のある人だけが価値があり、ほかは価値がない。そうやって差をつける社会に、広場で突っ立っている人の中に飛び込むお方は問いかけるのです。「わたしは誰も拒まない。わたしの声に耳を傾けなさい。」

ある年の叙階式ミサで、司祭に叙階される方を育てた小教区の主任司祭が次のような説教をしました。「司祭がキリストの身分においてささげるミサは、永遠の価値がある。たとえ、司祭に叙階された者が一度しかミサをささげることができず、翌日には亡くなってしまったとしても、その人は完全に司祭職をまっとうしたのである。」言葉はまったく同じではないかもしれませんが、おおよそそのような説教でした。

わたしは、「そうかなぁ」と思いながら聞いたのを覚えています。「十何年、司祭職を目指しで準備を続けたのに、一日しかミサをささげることができなかったとしたら責任を問われるでしょう。」わたしはそう考えたのです。

きっとわたしも、賃金をもらうために行列に並んでいる一人なのだと思います。しかも、25年このかた司祭として働いて、数えきれないほどミサをささげて、それなのに父なる神の気前の良さを忘れ果て、「働いてやっているんだから報酬をくれ」と列に並んでいる者に違いありません。そして一日しかミサをささげることができなかった司祭を見て、「あの人よりはましだ」と思っている人間。それがわたしなのだと思います。

どうすれば、最初から初めて最後の者まで気前良くしてくださる神の思いに賛成ですと答えることができるのでしょうか。わたしは大切なことを忘れていました。主の祈りは次のように祈っています。「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」

「みこころ」とは、たとえ話のぶどう園の主人が示した「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(20・14)という態度にほかなりません。どうか、みこころが地にも行われますようにと、わたしたちは毎日、もしかしたら日に何度も、願っているのでした。

言葉に裏表があってはいけません。わたしたちは祈っているのですから、最後に一時間だけ協力した人に神がねぎらいの言葉をかけるのならば、わたしたちはそれに賛成しますと、答えなければなりません。わたしたちが神の子となるためです。この世が大切にしている仕事の量、仕事の質で計る物差しを横において、わたしたちが計る物差しは、天の父が示した物差しですと、きっぱり言える生き方をしましょう。そのための恵みをミサの中で願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼危うく小教区報に穴を開けるところだった。田平小教区は月末の日曜日に小教区報を発行しているが、今月は24日が最終日曜日である。わたしはもう一度日曜日があるくらいに考えてのんびりしていたがよく考えると来週は10月1日が日曜日ではないか。
▼あわてて原稿作成に取り組む。主任司祭が用意するものは3つ。1つは主任司祭に割り当てられている毎月1頁のお話。1つは人物の動静。1つは主任司祭の来月の行動予定。分量としては1頁の話がいちばん多いが、作業としてはいちばん楽かもしれない。
▼むしろ人物の動静と、来月の日程表の提出が大変だったりする。来月の日程などはいつも「来月の分は早めに準備しておこう」と思うのだが、結局ギリギリになって予定を埋めていく。そうして、3つの責任が重なって重荷になる。
▼まあ、それでも仕事をしているのは楽しいものだ。今週の「ぶどう園の労働者」のたとえでも、主人が雇い人に最後まで仕事を与えるのは、人が労働をすることで人間らしさを回復することを知っているからである。毎日、時を無為に過ごせば、いつか人間としての誇りも失ってしまう。
▼それでも、同じ仕事をいつまで同じようにできるか、心配になることは多い。キーボード入力しているこの両手も、いつまで正常に動いてくれるかわからないし、声もいつまで失わずにいられるか分かったものではない。人間はいつまでも期待するが、それは期待しすぎである。
▼今週も、何とか説教も仕上がったし、締め切りの迫った小教区報の原稿も整った。大きな仕事としては、百周年記念誌の原稿が気がかりだ。無事に原稿が集まり、日の目を見ることを切に願っている。

† 神に感謝 †