復活節第6主日(ヨハネ14:15-21)

復活したイエスは四十日にわたり弟子たちに現れ、その後天に上げられたと教会は教えます。今週は復活節第6主日、いよいよ父なる神のもとに帰るにあたり弟子たちを励ます言葉が聞こえます。わたしたちも復活したイエスがより身近に感じられるきっかけをつかみたいと思います。

直前に亡くなって葬儀ミサをささげたお父さんの姿をじっと眺めていて、わたし自身の父のことを思い出しました。9年前の5月31日にわたしの父は亡くなりましたが、棺に納められて丸一日自宅で過ごしました。もちろん話をすることなど叶わないわけですが、奇跡が起こって返事をしてくれないかと思いつつ、心の中で話しかけたのを思い出します。

結論から言うと、話しかけてその時は返事をもらえなかったわけですが、問いかけたり話しかけたりした返事は、少し違う形でもらえたような気がしています。中田神父の父親は晩年は熱心に教会に通い、ロザリオ部の部長を務めていました。ロザリオの信心を絶やさないようにするための部会でした。

そういう父親でしたので、父親の声を聞くためには、父親が常日頃大切にしていたロザリオを自分もおろそかにしないことではないかなと思うようになったのです。そうしているうちに、「お前もこの地味な信心業の良さが分かって来たか」そう父親が言ってくれているような気がしたのです。

「こんな時は、どんな決断をしただろうか。」人を束ねて、大きな目標にたどり着かせようとするとき、規模は違うかもしれないけれども、旋網船の船長時代、ロザリオ部の部長だった時代、人を束ねてきた父親の返事を探して、祈りの中で答えを見つけようとしたのです。すると、ひんぱんに通っていたミサの中で祈っている父親の姿が思い出され、「おれだったらこうするよ」とか「おれはこうしたけどな」という声が聞こえる気がしました。

年老いた姿になるまで生きてはおりませんでしたが、父親が子供たちに何を残したかったか、何を伝えたかったかは分かります。生きている間に大切にしていたものを自分も大切にすれば、生身の声は聞こえなくても、何かしらの声を聞くことができると感じたのです。

与えられた福音朗読の中で、次の言葉が目を引きました。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(14・18)イエスの約束は力強いのですが、弟子たちは「はいそうですね」と喜んだのでしょうか。先週も話しましたが、イエスは御父のもとに帰ることを明言しておられるのです。おいそれと、「安心しました」とは言えないはずでした。

けれども、イエスが「あなたがたをみなしごにはしておかない」と言うからには、信頼に足りるだけの裏付けがあるはずです。わたしたちもその点を押さえたいのです。どうすれば、イエスに置き去りにされたと感じることなく、安心することができるのでしょうか。

それは、3年間共にしたイエスとの活動を、もう一度たどり直すことです。イエスはほうぼうの町や村を巡って教えを説き、病人をいやし、救いの希望を告げ知らせました。会堂では聖書を朗読し、集まっていた民衆や、指導的立場にある人々の前に立ちました。人々の無理解に会い、指導的立場の人々から命を狙われ、それでもイエスは御父がご自分のうちにおられると信頼していました。

これからは弟子たちが、イエスの生涯を追体験していきます。各地を回って救いの訪れを知らせ、会堂で聖書を解き明かし、理解されたり敵意を買ったりしますが、その中で常にイエスがそばにいて強め、励ましてくださることを肌で感じるのです。実際にそばにいた時も心強かったのですが、復活したイエスはその後も弟子たちを守り、彼らをみなしごにはしておかないのです。

じつはわたしたちも、身近なところで同じような体験をすることができます。もっと長く生きてほしかった親に旅立たれ、戸惑っているときに、親が大切にしていたものを子供たちがたどり直していくと、どこかで親がそばにいることが感じられたりします。

決してわたしたちを置き去りにしていったのではなく、わたしたちをみなしごにはしておかない、その親心が十分伝わる何かを見つけることができるのです。その何よりの近道は、両親が大切に守り、こどもたちにも残してくれた信仰の宝物を見直すことだと思います。

子供たちが、なぜここまでしてわたしに信仰を残してくれたのか、たどり直してみるときに、みなしごにはしておかないと考えていたことがありがたいと思えるようになるのです。親から子に残してくれた信仰をもう一度見つめ直したとき、わたしは旅立っていった父親を近くに感じることができました。

エスも、弟子たちが途方に暮れないようにしてくださいました。わたしたちがふだん途方に暮れることがあるとすれば、それは探し求める場所が違っているのだと思います。

「わたしを近くに感じたいなら、欲望渦巻くこの世ではなく、目を天に上げ、神の国を求めなさい。そこでこそ、わたしはあなたたちのそばにいて、あなたたちを力づけることができる。」イエスは当時の弟子たちにも、わたしたちにも同じことを教えようとしています。

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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会から帰って、すぐに通夜が入った。昭和41年生まれ、わたしと同世代ということだけ聞いて会場に行ってみると、はっきりわかる人だったのでびっくりした。つい最近も車を購入したと言って祝別をお願いに来た。
▼感心な人だなぁという印象を持っただけに、本当に惜しい人を亡くしたと思う。保育園の園長の話では、こどもたちが公立の保育園に通ったために、初聖体の準備のために2人の子供を田平教会近くのカトリックの保育園に毎週連れて行き、親子で初聖体の勉強をしたそうである。
▼子供たちもそうだし、車も、いったん神さまにお預けしてそれから受け取る。その心がけは立派だと思う。わたしたちは洗礼によってこの世から取り分けられ、この世に属さない者となった。そのことをよく理解して50年の人生を駆け抜けていった。
▼わたしも、このお父さんの生きざまには頭が下がる。お手本であるべき自分の生き方は、このお父さんに届いていないかもしれない。持ち物も、与えられた役割も、いったん神さまにお預けしてそれから受け取る。謙虚さをもっと磨かなければならないと思う。
▼今回、黙想会の途中でいったん田平教会に戻った。葬儀を控えているお父さんの洗礼名を確実に確かめるため、台帳を見に行ったのだが、結果的に家族が記憶している通りの洗礼名で正しかった。
▼よく先輩たちが「葬式が入ったから黙想会失礼する」と言って途中で帰ったきり戻ってこないことがあり、「ずるいなぁ」と思うことがあった。しかし途中でいったん戻り、また黙想会に復帰して最終日にまた帰ると、次の主日のミサの時はどっと疲れが出てくることが分かった。先輩たちの行動は、ずるいのではなく、先を見ての判断であった。

† 神に感謝 †