年間第18主日(ルカ12:13-21)

年間第18主日C年は「愚かな金持ち」のたとえが選ばれました。「神の前に豊かになる生き方」とはどのようなものでしょうか。わたしたちはどんな生き方をすべきでしょうか。

夏休み中は朝6時のミサ後にラジオ体操をしています。「頑張って来てくれた子供たちには史上最大のプレゼントをあげます」とお知らせしたのが効いたのか、よく頑張って来てくれています。まだ来てない子供たち、一度は来たけれども挫折してしまった子供たち、まだ夏休みは一ヶ月ありますから、どうぞ来てください。「史上最大のプレゼントを確かめたい」とお父さんお母さんにお願いしてみてください。

福音朗読に戻りましょう。金持ちが登場します。畑が豊作だった時、「もっと大きい納屋を作り、もっと穀物や財産をため込む」ことを考えました。自分の持ち物ですからどう使おうが勝手ですが、少なくともこの金持ちの行動は神には「愚か」に見えたということになります。

お金を使えば財布の中身は減りますし、食べ物を消費すれば保管していた倉庫に空きができるでしょう。もろもろの活動で空間ができた時、その欠けたところをどのように満たすか。この差が「愚かな者」か「神の前に豊かな者」かの分かれ目になるのです。

ではわたしたちは何によって自分の欠けたところを満たせばよいのでしょうか。今月旅立っていった一人のシスターを紹介しますので、彼女の生き方を例に考えてみましょう。そのシスターの名前は小林三枝と言って、わたしが小学生のころ、郷里の鯛之浦教会で奉仕しておられてお世話になったお告げのマリア修道会のシスターです。

小林シスターはわたしにとって大恩人のシスターです。生まれたとき助産師に取り上げられた人たちは、その助産師さんを「この世に取り上げてくださった方」として恩を感じることでしょう。そのように、小林シスターは、わたしが司祭職への道を意識していない頃からわたしに声をかけ、司祭職への道に取り上げてくださったのでした。

当時わたしは小学4年生くらい、小林シスターは堅信組のけいこを担当していました。当時は一問一答形式でまとめられた「公教要理」という本で学んでいました。先生役の小林シスターが問題を読んで、生徒のわたしたちは答えを繰り返して暗唱するという勉強でした。

記憶力がよかったわたしは、答えを暗唱するだけの勉強が次第に退屈になり、勉強会に行かなくなりました。その時間はカトリックでない友達と小学校のグランドで遊び、カトリックの友達の勉強が終わるころに示し合わせて自宅に帰ることを繰り返していました。

堅信組は学期ごとに主任司祭の試験がありました。試験はいつもその場を切り抜け、のちに長崎の神学校に入学しそこで堅信式を受けます。小林シスターは勉強会に来ないわたしをずっと心配していたはずです。もしかしたら、ずっとわたしのために祈っていたかもしれません。旅立ってしまい、もはや確認できませんが、まじめに勉強に来ている子供たちよりも、ある意味、心の中で気にかけてもらっていたかもしれないのです。

堅信組に加わるころ、けいこに来ないわたしに小林シスターは「侍者」をさせました。そば近くで司祭がミサをささげているしぐさを見て、司祭へのあこがれを持つように願ったのでしょう。侍者デビューするまで小林シスターは付きっきりでミサの時の動作を教え、指導してくださいました。

6年生になると身長が伸びて、小学生用の侍者服が入らなくなり、中学生用の侍者服を着なければならなくなりました。小林シスターはこの中学生用の侍者服をわたしに着付けさせながらこう言ったのです。「小学生でこの中学生用侍者服を着た子供は誰もいない。だからあなたは、神学校に行きなさい。」長崎の学校は丸刈りにしなくてもよいとも聞いていましたので、これ幸いと思い「神学校に行ってみよう」と思ったのです。

付きっきりで面倒を見てくれた小林シスターのおかげもあり、わたしは長崎の神学校に入り、何とか司祭になりました。前任地の浜串教会に赴任した時です。偶然にも小林シスターの妹さんが、山口さんという人と結婚して住んでいました。山口さんから、姉小林シスターは歳を重ね、静かに晩年を過ごしておられると聞き、思いきって訪ねることにしました。

訪ねてみてびっくりしました。小林シスターは認知症を患い、会話の途中何度も「中田神父様は、いまどちらの教会ですか?そうですか。浜串教会でしたか」「中田神父様は、いまどちらの教会ですか?そうですか。浜串教会でしたか」と繰り返しているのです。

小林シスターは、間違いなくわたしを司祭職への道に導こうと、人々の中から取り上げてくださった恩人です。少しは自慢しても、誇ってもいいはずなのに、小林シスターは記憶を失い、ご自分がわたしを司祭職の舞台に上げてくださった恩人であると思い出せなくなっていたのです。

記憶が欠けてしまい、記憶を満たそうと繰り返しわたしに尋ねますが、満たされません。しかしシスターを満たしてくださる方はほかにおられるのです。聖書の次の言葉を思い出しました。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」(マタイ6・3)徹底的に、わたしのためにしてくれた施しを「隠れた施し」にして天国に旅立って行った。小林シスターの欠けたところは、神がすべて満たしてくださっているはずです。

わたしはこのシスターの生き方を振り返りながら、自分の欠けたところを神に満たしてもらう生き方は尊いと、改めて思いました。この世の活動はすべて、自分の持ち物を使い、減らしながらの生活ですから、何かが欠けていきます。その欠けたところを、この世のもので満たすのではなく、神に満たしてもらう生き方が、神の前に豊かな生き方です。

心と体の欠けた場所がある。欠けていると感じる。その時こそ、神に欠けたところを満たしてもらうまたとないチャンスです。何によって満たそうとするかを誤ることなく、神の前に豊かになる道を選びましょう。そのための知恵と照らしをこのミサで願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼狐につままれたような気分である。使い物にならなくなった事務用のパソコンを廃棄処分して、代わりにノートパソコンを購入して仕事にとりかかることにした。まだすべてが軌道に乗っているわけではないが、いちおう文書作成と表計算のソフトが入っているので仕事は始めることができると思っていた。
▼パソコンをセットアップしたのが7月21日。ところが7月27日になって事態が急変した。文書作成ソフトと表計算ソフトが、「ライセンスのない製品」と表示され、ファイルを開いても何も操作できないのである。7月27日、朝9時にこの現象を確認し、それからあれこれ2時間、ネットを調べたり認証させるにはどうすればよいのかあちこちいじったが、解決できなかった。
▼呆れ果て、「オフィス製品付属のパソコンを買ったのは間違いだったのか」と、どこに怒りをぶつけてよいのかわからないまま数時間怒りをためていた。不本意ではあったが、互換性のあるソフトを入手し、2万円近くしたオフィスソフトを諦めることにした。
▼諦めたのだが、本心は諦めがつかない。そこでホームページ上で何度も見ては手を出さなかった「再インストール」の項目に沿って作業をすることにした。ADSL回線のため、この作業は避けたかったのだが、すでに何時間も時間を無駄にしているので、ダメでもいいやという気持ちでインストール用のファイルをダウンロードし始めた。
▼あちこちいじっているうちにもう一つの問題に気が付いた。Windows10の登録である。わたしはそう理解したが、Windows10も登録が必要なようなので、こちらの登録も済ませた。それと同時進行でオフィスの再インストールを進めたのだが、数時間後、あっさりライセンス登録も完了した。今日の労力は何だったのだろうか。何の意味があったのだろうか。

† 神に感謝 †