聖霊降臨の主日(ヨハネ14:15-16,23b-26)

聖霊降臨の主日を迎えました。天に昇られたイエスは、父なる神と御子イエスとの愛である聖霊を、弟子たちに注いでくださいました。聖霊の注ぎによって、天に昇られたイエスのわたしたちに対する愛を知ることができます。聖霊の恵みに、どのようにすれば感謝を表すことができるでしょうか。み言葉にしばらくひたりたいと思います。

復活節から年間の季節に移行するこの時期、一連の主の祭日が続きます。主の昇天・聖霊降臨・三位一体・キリストの聖体・イエスのみ心です。これら一連の祭日の名前と順番は、ぜひ覚えておきたいものです。

ついでですが、わたしが大人の信徒に求めることは、これから大人の信徒の仲間入りをする堅信組にも求めると理解してください。大人に要求することは、わたしは堅信組にも要求します。そういうわけで、ついこの前のけいこの時は、典礼暦で大切と思う10の祝祭日を覚えてもらいました。

先週散髪に行きました。なかなか床屋の看板が目に留まらなくて、はじめはずいぶん探しました。ようやくお店を探し当て、火曜日に散髪してきました。「そろそろ行こうカナ」「だいぶ伸びたし、いいかげん行こうカナ」「散髪に来るのを待ってますって言ってたお店はどこにあるのカナ」ここまで「カナ」を4回言ったカナ。まぁ、これくらいお店の名前を宣伝しておけば大丈夫でしょう。

福音朗読の学びに戻りたいと思います。聖霊降臨の場面は第一朗読、「使徒言行録」に詳しく描かれていました。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使2・1-4)

ここで2つのことを取り上げたいと思います。1つは、「一同が一つになって集まっていると」(同2・1)という場面です。何気ない場面と思われるかもしれませんが、彼らはすでに心を一つにして、助け主である聖霊を待っていたということです。

エスの復活の直後、恐れに囚われて家の中に閉じこもっていた弟子たちでしたが、復活したイエスが天に昇られた後は、心は一つにまとまっていたのです。そこへ炎のような舌の形で聖霊が現れ、一人一人の上にとどまりました。わたしたちが聖霊の恵みを願うためにも、心を一つにして祈り求める必要があることを教えてくれていると思います。

もう1つ取り上げたいのは、「一同は聖霊に満たされ」て「話しだした」ということです。聖霊がちょっと注がれたのではありません。聖霊に満たされたので、言葉となってその人から溢れ出ていったのです。

ここに、聖霊降臨が果たした2つの面が示されていると思います。1つは、御父と御子の愛である聖霊は、溢れて弟子たちに注がれていったということです。たとえば夫婦間の愛は夫婦の間にだけとどまるのですから、御父と御子の愛は、御父と御子の間にだけとどまるということも可能だったでしょう。けれども神はそのような閉じられた愛を望まず、愛である聖霊が弟子たちに、そしてわたしたちにも注がれるように窓を開いてくださったのです。

聖霊降臨のもう1つの面は、弟子たちに注がれたのちに彼らを満たし、あふれて人々に届いたということです。聖霊が弟子たちを満たして、そこでとどまって終わることも可能だったかもしれませんが、聖霊は弟子たちを満たすだけでは終わらず、溢れて人々に語りかけたのです。

この同じ聖霊降臨の体験は、わたしたちにも与えられるに違いありません。父と子の愛である聖霊は、復活したイエスに希望をおくすべての人に開かれているのです。聖霊は溢れて、イエスを信じるすべての人に注がれるのです。

もう1つも同じように実現するでしょう。わたしたちに聖霊が注がれたなら、わたしたちを満たして終わるのではなく、わたしたちから溢れて人々に向かっていくはずです。「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使2・4)とありますが、これは別に日本人が外国語をすらすら話すということだけ考えなくてもよいと思います。

「イエスを信じる人は永遠の命を受ける」この言葉だけでもイエスを知らない人々には何を言っているのか分からない言葉のはずです。これまでの生活で聞いたこともない言葉は、十分にほかの国の言葉ではないでしょうか。

あとは、わたしたちの応答だけが残っています。今週の福音朗読でイエスは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネ14・15-16)と仰っています。

新しい言葉、つまりイエスを知らない人々が一度も聞いたことのない洗礼や聖体や罪の赦しがあるのですと語りましょう。わたしたちから溢れ出た言葉は周りの人々を変えるきっかけとなります。それはもはやわたしたちの言葉ではなく、聖霊の恵みが溢れてわたしたちの口をついて出てきた言葉だからです。

互いに愛しあうこと、聖霊の導きに信頼して、すべての人に福音を知らせること。これらはイエスの「掟」でもありますが、わたしたちに注がれた愛が言葉や態度になって溢れ出たそのものなのです。

御父と御子は、その愛を閉じた関係にとどめることを望まず、弟子たち、わたしたちに溢れさせてくださいました。わたしたちも聖霊を受けて、閉じた関係にとどめることなく、周りに溢れさせましょう。聖霊降臨はこうして、イエスを信じる者から始まって、世界中のすべての人に届いて行くのだと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼傑作な話が毎週毎週発生するが、こまめにメモを取らないものだからどういう話だったか忘れることが多い。一度体験したことは脳から直接データを取り出せるような発明をしてくれないだろうか。眠らせて夢を発生させてデータに取り込むとか、夢物語のように聞こえるかもしれないが、そんなことが出来たら、忘れる前に保管できるのにと思う。
▼大神学院の生徒たちを率いてA神父さま一行が田平教会を訪ねて来て、その日の晩信徒会館に宿泊した。5月の連休でもあり、巡礼をしていて、前任者との取り決めで宿を貸してもらうことになっていたらしい。翌朝のミサをA神父さまも一緒にささげてくださり、大神学生たちも参加した。
▼わたしは大神学生を念頭に置いて、次のような話をした。「司祭に求められる資質の一つとして、どこででもどんな状況でも、ぐっすり眠れることは大切だと思います。」赴任した教会の主任司祭と折り合いが悪くなって一言も口を利かなくなったとしても、それでもぐっすり眠ることが出来なければ、この先続かない。
▼あるいは、赴任した先にこれまでの積年の問題が山積していて、思わず逃げ出したくなるような状況になっているかもしれない。それでもぐっすり眠れなければ、先は長いのである。だから、どんな状況であっても眠れる。これは大切な資質だと思うと話したのだった。
▼ところでこの日、小学生の侍者が3人来ていた。5人兄弟の上から3人が来ていたわけだが、長男と次男に挟まれて侍者をしていた三男が、何と第一朗読中から居眠りしていたのである。当然説教中も寝ていたわけだが、ミサが終わった時に共同司式をしてくれたA神父さまがその子を呼び止めた。
▼「やあキミキミ。ミサ中神父さんが何を話していたか分かるかい?どんな場所でも、どんな場面でもぐっすり眠ることが出来るのは司祭に求められる資質だと言っていたよね。キミはどうやら司祭に必要な資質が備わっているようだね。神学校に来なさい。」

† 神に感謝 †