復活節第6主日(ヨハネ14:23-29)

「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」(14・29)復活した主は聖霊の約束にわたしたちの目を向けさせようとしています。聖霊が働くその時に向けて、わたしたちも準備を急ぎましょう。

先週月曜日、ステキなご婦人が司祭館を訪ねてきました。午前10時ごろでしたが、司祭館のチャイムが鳴ったのです。月曜日だったので、「月曜日にチャイムを鳴らすとは無礼な」そう思いながら玄関に向かいました。そのご婦人はごミサをお願いに来ていました。

「ごミサならよろしい」と内心思っていたら、こう話しかけてきたのです。「神父さま。わたしは80歳になります。神父さまのお説教はステキです。」それを聞いてわたしは手の裏を返したように「まぁ何とステキな方でしょう」と思い直したのです。目の前のご婦人があと30歳若かったら一目ぼれしたのになぁ、と思いました。

話は変わりますが、次のコマーシャルをご存知でしょうか?「わたしのおじいさんがくれた初めてのキャンディー。それはヴェルタース・オリジナルで、わたしは4歳でした。その味は甘くてクリーミーで、こんな素晴らしいキャンディーをもらえるわたしはきっと特別な存在なのだと感じました。今ではわたしがおじいさん。孫にあげるのはもちろんヴェルタース・オリジナル。何故なら彼もまた、特別な存在だからです。」

もちろん飴の宣伝です。いかにもおいしそうだと感じさせます。みなさんは飴を食べるとき、性格が出ると言ったら信じるでしょうか。たとえば、飴を最初からガリガリ噛んで食べる人はいませんか?その人はきっとせっかちなのだと思います。さすがに最初からはガリガリいかなくても、最後のほうになるとガリガリ噛んでしまう人なら結構いるでしょう。この人たちはまぁふつうです。

そしてのんびりした人たちは、最後の最後まで、溶けてなくなるまでゆっくり味わうでしょう。飴を食べる癖をよくよく観察していると、3つのタイプそれぞれに性格が出ると思っています。

福音朗読に戻りましょう。イエスの約束は何だったでしょうか。次のようなものでした。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14・26)今回このイエスの約束を、わたしたちにどのように当てはめることができるかなぁと考えてみたのです。

せっかちな人はこう考えるでしょう。「聖霊が教えてくれて、ことごとく思い起こさせてくださると言っておられた。それなのに今日教えてくれなかった、今日思い起こさせてくれなかった。なんだ、イエスさまは約束を果たしてくれないじゃないか。」すぐに結果を求め、すぐに答えを求める人がいます。すぐ与えられないと我慢ならない人は、聖霊の働きに導かれるのは難しいかもしれません。

次のような人もいるでしょう。最終的にどこかで期限を切る人たちです。あと少し残っていた飴を、かみ砕く人たちと言ったらよいでしょうか。この人たちはいつまでも待とうとはしません。やはりどこかに締め切りを置いて、いついつまでに結果が出なければ、そこで終了と決めてしまう人たちです。多くの人がこのタイプに当てはまると思います。

エスは、聖霊が教えてくれて、ことごとく思い起こさせてくださると約束しましたが、それでも多くの人はそれがあまりにも長い時間かかるのは困ると考えてしまいます。ですから多くの人は、イエスの約束を信じてはいても、聖霊がいつ教えてくれて、いつことごとく悟らせてくださるのか知りたがっているのです。ですがイエスの約束なさることを「それはいつなのだ、どれくらい待つのか」わたしたちに注文を付けることなどできるでしょうか。

そして残る人たちは、イエスの約束がどれだけ時間がかかっても、それを待ち続ける人です。最後の最後まで飴をかみ砕かずに、飴が溶けきるまで待つことのできる人です。この人たちは、たとえイエスの約束、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」この約束がどれだけ時間がかかっても、イエスの約束は必ず実現すると信じて待ち続けることのできる人です。

ここまで考えてみて、聖霊の働きに信頼を置いている人とは、どのタイプの人たちを言うのでしょうか。わたしは最後のタイプの人たちが、イエスの約束、聖霊の導きに十分にあずかれる人たちではないかなと思っています。

必ずしものんびりした人たちだけがこの最後のタイプなのではありません。どんな性格の人でも、その性格をうまく生かしながら、最後の最後まで飴が溶けるのを待つようにイエスの約束が実現するのを待つなら、聖霊の導きを十分味わうのではないでしょうか。

わたしたちのほうで結果を判断せず、あるいは期限を切ったりせずに、聖霊がすべてのことを教えてくださるまで、イエスの話したことをことごとく思い起こさせてくださるまで待つ人であるなら、必ず聖霊の恵みに触れるのだと思います。

わたしたちは、イエスが約束してくださる聖霊の働きに、どこまで信頼を置こうとしているのでしょうか。わたしたちのほうから期限を切ったりせずに、聖霊の働きに自分を委ねる信仰を育てていきましょう。

一つのゴールに導くのに、ある人は1年、ある人には3年をかけようとしておられるかもしれません。それでも、信頼を失わないでイエスの約束する聖霊の働きに心を開きましょう。わたしたちに約束された聖霊は、わたしたちの必要を満たして余りあるお方なのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼教会には役場の「戸籍」にあたる大切な台帳がある。いくつかに分かれていて、それぞれを手書きで連動させる。まず「洗礼台帳」。ここに洗礼を受けたすべての信徒が記録される。次に「堅信台帳」。長崎教区では中学生の頃に堅信を受けるが、それを記録する。
▼堅信を受けると、さかのぼって洗礼台帳にも「この人は堅信を受けました」という証拠を追記する。人によっては転出していき、転出先の教会で受けた堅信証明書が届き、それを洗礼台帳に追記する。
▼さらに多くの人は結婚する。すると婚姻台帳にまず婚姻の内容を記録し、さらにさかのぼって洗礼台帳にも「この人は結婚しました」と追記する。面倒なのだが、記録はとても大切なのである。場合によっては違う教会で結婚式をするから、婚姻証明書が届いた時点で追記する。
▼もしもこの人が死亡した場合、死亡台帳に死亡した旨を記録する。場合によっては違う土地に住んでいてそちらの教会で葬儀を済ませ、「死亡しましたよ」と死亡通知書が届くので記録する。
▼さらに手順がある。これら一連の台帳記録を済ませたのちに、堅信証明書と婚姻証明書、死亡通知書は最終的に教区本部に転送する。こんなめんどくさいことをすべての司祭がちゃんと果たしているのだろうかと思うこともある。まぁきっとまじめにやっているのだろう。
▼ここからが本題だ。それぞれの台帳も歴史を重ねてくると古びてくる。教会によっては製本された台帳を100年以上保管するわけだから、当然傷みも激しい。赴任した田平教会の台帳も、手を打たなければ本がばらばらになって大切な記録も散逸してしまう恐れすらあった。長くなるので来週に続く。

† 神に感謝 †