聖家族(ルカ2:41-52)

聖家族の祝日、与えられた福音は神殿での少年イエスの物語です。両親と少年イエスエルサレムへ旅をして、いったん両親がイエスを見失い、再会するまでに三日間を要しました。この「両親と離れていた三日間」について、思いを巡らせたいと思います。

子どもの成長には目を見張るものがあります。6年間子どもを見てきまして、小学3年生で侍者を始めた子にある時「だめじゃないか」と叱ったところ、しくしく泣いていたのが、今は立派な中学生です。

上五島地区の教会対抗ドッヂボール大会、ある年はブロックの準優勝の栄誉に輝きましたが、子どもたちが一戦一戦たくましくなり、一日のうちに成長が手に取るように分かりました。ときには小学生に過ぎないと思うこともありますが、驚くような速さで成長するものです。

少年イエスについても、同じことが言えるのではないかと思いました。両親が少年イエスを見失った三日間、この時間は少年イエスにとって急激に心の成長を遂げた時間だったのではないかと思いました。イエスには神の独り子としての使命が待っています。十二歳の時に鞭打たれて十字架に磔にされる必要はありませんが、近い将来、重い使命が待ち受けていることは確かです。

物語の描き方をよく注意して読み返すと、両親のヨセフとマリアがどのような気持ちでエルサレムに上ったかがわかります。2章42節に「両親は祭りの慣習に従って都に上った」とあるのです。両親にとってはエルサレムへの旅は、見倣うべき慣習としての意味合いだったようです。

少年イエスはどうだったでしょうか。イエスにとってエルサレムへの旅は、御自分の使命を自覚する旅だったと思います。エルサレム神殿には特別な場所があり、そこには神がとどまっておられると両親から教えられていたことでしょう。するとエルサレム神殿を目指す旅は、父である神に会いに行く旅でもあったわけです。

実はルカ福音書全体が、救いのわざを完成させるエルサレムへの旅と言ってもよいのですが、いよいよエルサレムに来たとき、もっと父である神と親しく語りたい、御父の御心を知りたいという思いに駆られたのではないでしょうか。

当然、祭りの慣習としてエルサレムに上ってきた両親と、御父と親しく語りたいという思いが増した少年イエスとでは、別の道を歩み始めることになったわけです。両親はナザレに帰るという道を選び、少年イエスは御父のもとにとどまるという道を選びました。

道が違っていれば、どちらかが他方の道に合流しなければ相手を見つけることはできません。両親はもと来た道を歩いてエルサレムに戻り、少年イエスが選んだ道に合流したのです。しかしそれでもなお、イエスがこの三日間で選んだ道がどのような道なのかは理解できなかったのでした。

「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(2・48)両親は少年イエスを、自分たちが歩いている道の途中にいるものだと探しました。祭りの慣習に従ってエルサレムに上る、慣習を果たせばナザレに戻る。その道の上に少年イエスはおられなかったのです。

少年イエスは、三日間で御父の御心を歩むという道をはっきり自覚したのだと思います。どんな苦難が待ち受けているかは別として、御自分が歩くのは両親が歩く道から、御父が示される道へと一段階上がったということです。三日間で、そこまで少年イエスは成長したのだと思います。

「しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。」(2・50)今は分からなくても、マリアはのちにイエスが歩く道を理解します。イエスが歩いている道に合流します。それはエルサレムへの道で、しかも十字架へと続く道でした。たとえ今は理解できなくても、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(2・51)のです。

わたしたちも、聖家族がたどった道をたどる者です。両親が自分たちの道連れの中にイエスがいるものと思っていたように、イエスを自分たちの道の途中に探そうとしますが見つからないことも体験するでしょう。そのとき驚き慌てるかもしれませんが、イエスを探すためには、イエスが歩いている道、イエスがたどっている道にわたしたちが合流しなければならないのです。

少年イエスエルサレムでの三日間で、御自分の道を理解しました。もしわたしたちが道に迷っているとしたら、イエスが見つけられずに迷っているとしたら、わたしたちは道を選びなおす必要があります。今歩いている道を放棄して、今の生活を放棄して道を選び直すのではなく、わたしの生活の中のどこかに、きっとイエスが歩いている道がある。その道に合流するように、生活を整えるのです。

最近の車には道案内をする道具が用意されています。道を逸れると、何度も計算し直して別の道を示してくれます。わたしたちの人生もそのようなものです。イエスが歩いている道に、何度も計算し直して合流する。その積み重ねが、わたしたちにとってのエルサレムへの道だと思います。

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ちょっとひとやすみ
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上五島地区の後輩司祭から急な電話がケータイに入った。「先輩、保存せずに終了したワードのデータを復旧する方法を知りませんか?」電話の内容を聞いて、急ぎでなければ様子を見に行ってもよいがと考えていたら、今晩の降誕夜半のミサの説教だと言う。
▼こちらも手いっぱいで、今駆けつけるのはちょっと、とためらってしまった。一般的な「バックアップ設定」がなされていれば問題ないのだろうが、電話の内容ではバックアップファイルを探すという用件ではなさそうである。「少し調べて返事する」と答えて電話を切った。
▼最近のマイクロソフトオフィス製品は保存しなかったファイルに関しても復旧できる道があることが分かった。わたしがネットで参照したのはワード2013の標準仕様として、一時ファイルを保管していることが分かり、すぐ電話を折り返してそのことを伝えた。
▼「あの〜、自分のはワード2007なんです。」一瞬、言葉を飲み込んでしまった。当然古いバージョンを使い続けている人もいるわけで、そのことには思い至らなかった。「残念ですけど、また書き直します。」わたしも力及ばずで申し訳なかった。念のため、何か方法がないかと調べ、それらしい情報を見つけたのでメールで流したのだが、「うまくいきませんでした」とだけ返事が来た。本当にお気の毒である。
▼次に会った時は、念のためバックアップファイルを5分ごとにとるような設定を勧めておこうと思う。わたしはそういう設定は煩わしいのでお断りだが、今回の後輩はそういう設定にしておけば助けになるかもしれない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===