主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)

あらためて主の降誕おめでとうございます。夜半のミサの朗読を一枚の絵と表現するなら、日中のミサの朗読はその一枚の絵の解説のようなものかもしれません。今年のご降誕日中の福音朗読から、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(1・16)に注目したいと思います。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1・14)救い主誕生の場面は、「恵みと真理とに満ちていた」のです。どれくらい満ちていたのでしょうか。それは、全人類の救いを成し遂げて余りあるほどだったのです。

わたしたち人間社会は、あちこちで戦争や暴動が繰り返されています。そうした大がかりな揉め事でなくても、事件や事故があり、身の回りでも心が滅入ってしまうような話題に事欠きません。

神が人となってくださったという驚くべきわざは、それらすべてのことを超越する恵みと真理に満ちているのです。どんなに闇が暗くても、どんなに谷が深くても、闇を照らし、谷を埋めることのできる恵みと真理が救い主の誕生にはあるのです。

しかしこの世は、みことばを認めませんでした。自分の民のところへ来たのに、民は受け入れませんでした。神が御子をお与えになるという最大の愛を示してくださったとき、神が見たこの世は、これ以上ない暗い闇に見えたことでしょう。

それでも神はこの世を見捨てませんでした。世の闇がどれほど暗くても、闇に光をもたらし、すべての人を照らします。神が独り子をお与えくださったと信じるわたしたちは、先に神に照らされた人です。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」ヨハネ福音記者の証言の通りです。

わたしたちは神が与えてくださった計り知れない恵みを、人々に届けに行く使命があると思います。人々に語りかけてください。「抱えている闇はいったい何ですか。突き落とされ、もがいている谷は何ですか。」そして解決の糸口は御子イエス・キリストですと告げ知らせてください。神は独り子をお与えくださいました。イエス・キリストは、どんなに暗い闇をも照らし、どんなに深い谷も埋めて平らにしてくださるのです。

わたしたちも、さまざまな暗闇を見たかもしれない、深い谷底でもがいたかもしれない。わたしたちはそのたびに教会に来て恵みにあずかり、闇を照らし谷を埋める方に触れてきました。この体験を、一人でも多くの人に届けに行きましょう。イエスはわたしたちが届けに行きやすいように、小さな姿で、幼子の姿でおいでくださいました。

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ちょっとひとやすみ
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▼「窮地に追い込まれると本性が出る。」ドラマ「下町ロケット」でサヤマ製作所の椎名(小泉孝太郎)が言ってたっけ。今回のドラマは最終回を何度も観た。繰り返し繰り返し観た。おかげでまず21日(月)の朝に寝坊した。それでも月曜日も火曜日も何度も観て、そうしていたら巡回教会高井旅の会計の人から「○○さんが亡くなりました。通夜と葬儀ミサの日程はどうしましょうか」と連絡が入った。
▼最初に浮かんだのは亡くなられた方のことではなかった。「うー、クリスマスの説教を考える時間が無くなる。どうしよう」だった。その次に浮かんだのが「クリスマスには葬儀ミサは避けたいなぁ。規則の問題というより、体がきついから」だった。窮地に追い込まれて、わたしが考えたことは自分の都合のことだった。これが本性なのだと思った。
▼しかし、結果的に、葬儀が入ったことで時間の制約が明確になり、「何としても残り時間で説教を準備しなければ」というスイッチが入った。プラスに考えることは大切だ。それでも考え方を変えてようやくできたというだけの話であって、自分の本性が変わったわけではない。理想としては、最初に「あ、これはピンチじゃなくてチャンスだ」と感じるような人間になることだ。
▼今年のクリスマス説教は、日中のミサの説教から書き上げ、あとで夜半のミサ(クリスマスイブ)の説教を書いた。最初からこの計画だったわけではない。最初は時間順に夜半のミサの説教に取り掛かったのだが行き詰まり、そのままにしておいて日中のミサの説教に取り掛かったのだった。
▼すると意外にも日中のミサの説教が先に出来上がったので、残りの時間で夜半のミサ説教を書くことができた。この経験で学んだことは、「行き詰ったら、無理に続けようとしない」ということだ。この意見には賛成できない人もいると思うが、わたしにはこの考えが合っているように思った。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===