年間第27主日(マルコ10:2-16)

「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」(10・5)ファリサイ派の人々は「モーセが離縁状を書いて離縁することを許しました」(10・4)と主張しましたが、モーセがこのような考えに至ったのは人間の頑固さに妥協したからというより、人間の頑固さを告発するためだったとイエスは説明します。

ファリサイ派の人々は結婚を掟の立場からしか見ていません。結婚の意義や尊さを見ず、結婚した人が掟に触れずに妻を離縁する抜け道までも議論していたのです。

エスは結婚の意義や尊さこそ大切にされるべきであると反論しました。イエス旧約聖書の創世記を引用しながら、結婚が本来わたしたちに求めていることは何か、考えさせようとしています。わたしたちもイエスに導かれて結婚の意義や尊さを再確認しましょう。

9月29日の司祭団ソフトボール大会、長崎司祭団チームが力を十分に発揮して優勝しました。全体では3チームで総当たり戦を行い、長崎チームが2勝、佐世保平戸チームが1勝1敗、五島チームが2敗という結果に終わりました。

今年の五島チームは弱かったのかなと思われているかもしれませんが、試合の流れもあるし、勝負は紙一重という場合もありますので、わたしは特別弱かったとは思いません。ただ、大会の運営(参加費の徴収、審判の確保、女性部の奉仕の依頼、飲み物の買い出し、当日大会終了までのさまざまな雑事)そういうことに気を取られて本来の力を発揮できなかったかもしれないなぁとは思っています。

わたしの結果は、2試合でヒット1本と、タイムリー2塁打1本でした。ホームランは、今年はどの神父さまもだれも打ちませんでした。こういう時にわたしが一人だけ打てば目立ったのですが、残念です。

エスが結婚の意義を再確認するために引用したのは創世記2章です。その中で神は「彼に合う助ける者を造ろう」(創2・20)とお考えになりました。その男と女が力を合わせて生きる者となるとなることについて「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(同2・24)と宣言しました。この部分をイエスは引用していると思います。

天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マコ10・6-9)

ここから読み取れるのは、結婚の意義と尊さは、男女のカップルが対等に向き合う者として描かれているということです。男性を支えるためだけに女性が与えられたわけではありません。また、二人は一体となって結婚生活のさまざまな場面を体験し、ときには難局を乗り越えていく。そこに結婚生活の意義と尊さがあるということです。

人が前に向かって歩いていくためには、さまざまな問題を判断し、選択し、行動する必要があります。自分一人の判断ですべてを決めることは危険な場合もあります。そこに「向き合って助けてくれる者」がいて、力をもらえるのはどんなに有難いことでしょう。すぐそばに、助ける者がいる。それが、結婚生活なのだと思います。

また人間の成長のためには、苦しみの道を避けては通れません。苦しみがどんな意味を持っているのか、なぜこのような苦しみを通らなければならないのか、自分一人では背負いきれないこともあるでしょう。苦しみの道を通って、人間として成長する。結婚した男女は、避けて通れない苦しみを、もはや二人ではなく一体となって、乗り越える力を互いに与えるのです。

もしかしたら、興味や関心は次第に薄れていくかもしれません。毎日聞く同じような話は退屈かもしれません。また、次第に衰えていくことを互いに受け入れることは不可能と思えるかもしれません。

けれども、結婚した二人は、神が結び合わせてくださっているのですから、神はたえず、必要な力と恵みを与えてくださいます。こうして結婚は、単に人間に求められている掟の一つにとどまらず、互いに成長し、互いの完成のために関わり合って生涯を全うするのです。

結婚を掟の一つと見るファリサイ派の人々は律法が求めている心を忘れて形式主義に陥り、形式に触れないような抜け道にまで議論が及んで行きました。イエスは結婚を定めた神の思いに目を向けさせました。結婚の意義や尊さにあらためて気づけば、夫婦で担っていく苦しみさえも尊いものに変わります。神が与えてくださった恵みに感謝する一週間といたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼浜串教会に限らないと思うが、教会堂を美しく維持管理するために、教会女性部の方々には本当にお世話になっている。浜串教会女性部が毎週の教会掃除のために班分けを作り、各班が週替わりで教会清掃と花飾りを手伝ってくれている。
▼ところで、3年ほど前からは「教会は女性部だけで守っていくものではなくて、全世帯で守るべき建物。だから教会清掃も、各世帯から出すのが望ましい」という考えにたどり着き、男性女性分け隔てなく毎週の教会清掃を受け持つことが評議会で了承された。
▼ただそうは言っても、長椅子を拭いたり床を拭いたりするのに、男性が果たして協力してくれるのだろうか、という疑問が、主任司祭にはあった。残念ながらわたしは司祭館の清掃を教会女性部にまかせっきりにしていて、自分から掃除を手伝ったことがない。
▼そういうわけだから、「本当に男性が掃除を手伝ってくれるのだろうか」という疑念があったのだが、3日(土)に驚くべき光景を見た。教会正面の水汲み場からバケツに水を汲み、聖堂内ではモップ掛けをしている壮年の男性がいらっしゃるではないか。
▼この日の掃除の班を思い返してみたが、少なくとも1つの世帯は奥さんではなくご主人が掃除に出ていた。わたしの印象では、奥さんの方が掃除当番出席が想像できるような世帯だったので、この日は奥さんの出席が難しく、ご主人に頼んで出席してもらっていたのかもしれない。
▼あるいは、ご主人が積極的に掃除は引き受けるよと言って、いつもたくさんのことで教会のお手伝いに出ている奥さんを労わっているのかもしれない。当然すべきことをしているというような顔で取り組んでいる男性の方々に、心から敬意を表したい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===