神の母聖マリア(ルカ2:16-21)

新年明けましておめでとうございます。新しい年を、どのような形で始めるかはとても大切です。

いろんな新年の迎え方があるでしょう。ある人々は太陽を拝んで新しい年を始めます。ある人々はお祓いを受けます。ですがわたしたちカトリック信者は、神の母聖マリアをたたえるミサに参加して新しい年の始まりを迎えます。

新成人を迎える方々もおられるでしょう。人生の節目や、記念日を今年迎える人もいるでしょう。そうしたすべての人が拝むべきもの、受けることのできる恵みが、ミサに集まったこの場所にあります。そしてわたしたちはそのことを知っているので、こうして集まっています。

福音朗読は、羊飼いたちが天使に告げられた幼子を探し当てる場面が選ばれました。羊飼いたちが見たのは、単に飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子ではありませんでした。天使が話してくれたことが出来事になっているという、人間では成しえない神の業を見たのです。

ですから羊飼いたちは、人々にこのことを知らせました。み使いの話したことが出来事になっているということは、救い主が生まれた、人間の救いが目の前に現れたということです。すべての人が待ち望んでいたことが実現した。こんなに喜ばしいことはありません。

ところが聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思うだけでした。話を聞いた人々は、マリアという女性から生まれた幼子は理解できましたが、幼子誕生という表面的なことしか受け入れることができなかったのです。

神の救いの約束が、貧しい夫婦を通して実現したとか、救い主が家畜小屋で飼い葉おけに寝かされた状態でおられるとか、それを知らせているのが羊飼いであるとか、さまざまな事情が聞く人の心を曇らせ、理解を妨げたのかもしれません。

しかしマリアは、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(2・19)とあります。羊飼いたちが見たものを、マリアも見ました。すなわち、天使が話したことが、出来事となって実現したということ、そして羊飼いたちが、自分たちが見たことをためらうことなく人々に知らせたことです。神の救いは驚くべき形で始まり、必ず人々に知られていくのです。

羊飼いたちの最後の行動にもう一度目を留めましょう。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(2・20)とあります。「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とは、生活の中でこれからも神をあがめ、賛美するということです。

羊飼いたちの行動を見て、マリアの賛美の歌を思い出しました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(ルカ1・47)マリアも、神の驚くべき御業を理解した時に神をあがめました。洗礼者ヨハネの父ザカリアも、生まれた子にヨハネと名を付け、話すことができるようになったときに真っ先に神をたたえました。

羊飼いもマリアも、この一年をどのように過ごすのかお手本を示していると思います。わたしたちは教会に集まってミサにあずかり、神がわたしたちの救いのために独り子を与えてくださったことを見ています。

神の言葉が出来事となり、神が与えることのできる最上の恵みが人類に与えられました。わたしたちは出来事となったこの神の言葉を持ち帰り、自分たちが帰っていく生活の真ん中で神をあがめるよう期待されているのです。

わたしたちの日常生活はさまざまな形を取っています。ある人はいちばん長くいる生活の場所が危険と隣り合わせの場所かもしれません。ある人はいちばん長くいる場所は愛する家族かもしれません。ある人は常に結果を求められる場所で長く時間を過ごしているかもしれません。

それぞれの生活の真ん中で、羊飼いがしたように今日確認したものを告げ知らせてほしいと思います。すなわち神の言葉は出来事となったということ、この人となった神の言葉は恵みを与えてくれるということ。そして聞いた人々が信じるなら、同じ恵みにあずかることができるということです。

今日は一月一日、神の母聖マリアの守るべき大祝日です。わたしたちは教会に来て、ミサにあずかって一年を始めました。ここで見て確かめたことを、生活に持ち帰り、証ししていく一年としましょう。「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(2・20)この生き方を取り入れましょう。

証しをするにあたって、わたしの生活にあてはめると、どのような方法が可能なのか、神の母聖マリアに倣い、思い巡らすことにしましょう。出来事をすべて思い巡らそうとするとき、必要な助けはきっとマリアが一年を通して神に取り次いでくださいます。

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ちょっとひとやすみ
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▼新年明けましておめでとうございます。「一年の計は元旦にあり」で、今日何を思い巡らし、思ったことを果たそうとどれだけ熱意を持つかが、この一年を決めると思う。今年は特に信徒発見150周年でもある。
▼説教にも書いたが、カトリック信者はミサに集い、ミサの中で見たこと、受けた恵みを社会の中で証しし、自分たちがミサの中で受けたものはもっと多くの人々に知られるべきだし、その中の何人かは告げ知らせたことをきっと必要としていると思っている。
▼証しをし続ければ、「あなたが話していることは、わたしが本当に必要とし、求めていたものだ。それはどこへ行けば受けることができるのか」と尋ねる人がいると信じている。証しする人はいろんな人がいていい。証しするものが唯一のもの、普遍なものであれば、誰かの証しがある人に響くことがあるだろう。
▼社会の中で証しをするのだから、社会の真ん中にいて証しをするほうが効果が上がる。それは、置かれた社会の中に適応し、その社会の中で受け入れられる人になるということだ。「溶け込む」という言い方をしてもよいかもしれない。
▼ただ、今年はそれだけでない道を歩く人が必要だと思う。信徒発見150周年だから、ある意味わたしたちが社会の中で発見される年になるべきだ。これまでは迫害が始まると、カトリック信者は社会に溶け込まず、容易に発見されて命を落としていたかもしれない。
▼迫害が進むと、今度は決して発見されないように社会に溶け込み、信仰をひた隠しに伝えていった。迫害の終わりになって勇気を振り絞って大浦の司祭のもとに信仰を打ち明け、信徒が発見された。
▼その子孫たちであるわたしたちは、社会の中でカトリック信者であると知られ、発見されるべきときが来ていると思っている。信徒発見150周年記念だと言って大げさな行事や事業を立ち上げるよりも、まずはわたしたちが社会の中でカトリック信者であることを発見してもらう。それが今年必要なのではないだろうか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===