聖霊降臨の主日(ヨハネ20:19-23)

聖霊降臨の主日を迎えました。出来事に親しみを持てるよう学びを得ることにしましょう。聖霊降臨の主日説教をまとめるテーマを「分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまる聖霊」としたいと思います。

6月に入りました。月が変わった途端に梅雨に入りました。6月、長崎教区の信徒が意識してほしいことが1つあります。深刻な話ではないのですが、毎年6月に入る予定です。お分かりでしょうか。

答え合わせをしましょう。6月は、長崎教区司祭が黙想会に入る月です。それと関連して、シスターさんが賄いをしてくれている場合は、そのシスターも6月のうちに黙想会に参加することが多いです。

どういうことが起こるでしょうか。期間中は、皆さんの平日のミサができなくなります。よほどのことがない限り、司祭は戻りません。ちなみに最近の教区司祭黙想会は前半日程と後半日程に分かれています。

わたしも含め、上五島地区のほとんどの司祭が、再来週からの後半日程に参加します。どなたかお亡くなりになるとか、そういうことでもなければ、黙想会を抜け出すことはありませんので、第4週は司祭が1人もいなかった迫害の時代のように、各自で信仰を守り抜いてください。

6月は賄いをしてくださるシスターも黙想会に行ってしまいます。桐修道院から通っているうちの賄いシスターは11日から20日までの10日間黙想です。皆さんには直接影響はないですが、家庭で奥さんが10日間留守にするのと同じことが司祭館でも起こることになります。

わたしの場合、食事が問題です。毎年、女性部に食事作りでご迷惑をかけているので、今年こそは女性部の手を煩わせずに過ごそうと思っています。その代わり、頻繁に魚を釣りに行きたいのでお許しください。

さて先週、主の昇天の祭日の説教で、天に昇られたイエスは、天と地の一切の権能を持っておられるので、天のすべてをご自分の手の中に納めておられるように見守っておられると話しました。天におられるイエスは遠くに行ってしまったのではなく、むしろいつも共にいてくださると感じられる姿に移られたということでした。

そのイエスは、ご昇天の後十日目、五十日祭の日に聖霊を注いで、いつも共にいてくださることをより感じられるようにしてくださいます。第一朗読、使徒言行録によると、「霊」は「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使2・3)とあります。「一人一人の上にとどまった」とあるのが、出来事を身近に感じさせます。

弟子たちは、聖霊を受けた後にあらゆる国の人々にイエスの福音を宣べ伝えなければなりません。実際の宣教では、弟子たちが出かけて行った先で、それぞれの弟子たちにそれぞれの問題が待ち受けていることでしょう。その時に、一人一人の上にとどまってくださる聖霊が、イエスの話したみことばをことごとく理解させ、勇気を与えてくれるわけです。一人一人違った問題に直面していても、その一つ一つに聖霊が適切に助けをくださるので、弟子たちはイエスがいつも共にいてくださると強く感じたのではないでしょうか。

聖書の中で、聖霊はどのような助けを与えてくれるのでしょうか。第一朗読の使徒言行録では、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあり、話を聞いた人々は「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っている」(2・11)のを目撃したのです。

これは、聞く人が分かるように、神の偉大な業を語る力が与えられるということです。人は、わたしたちの信仰に興味を持った時に、「あなたの信じている教えはどんなものか」と尋ねることでしょう。けれどもわたしたちの言葉はつたなく、十分に伝えることができないかもしれません。聖霊はわたしたちを強めて、聞く人が分かるように、言葉を授けてくださるのです。

福音朗読のヨハネ福音書では、聖霊を受けると、赦しを与える力を受けるとイエスは教えます。今日の場面で「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(20・19)とあります。十字架にはりつけにされているイエスを置いて逃げ出し、自分の命惜しさに隠れていたのです。彼らはイエスに何重にも過ちを重ねていたことになります。

けれどもイエスは、彼らを責めず、お赦しになりました。しかも、弟子たちがイエスの約束した聖霊によって、人を赦す権能を受けることになったのです。イエスが共にいてくださるとは、まずあなた自身が赦されているという実感を得られる体験であり、先に赦されたことを感謝して、人を赦す。赦しの恵みが周りの人に広がる体験でもあります。弟子たちは、赦されるはずのない過ちが赦され、さらに人を赦す道具として使ってくださることを知って、イエスが共にいてくださることを実感したのです。

わたしたちにも、弟子たちの体験は繰り返されます。イエスの教え・生き方を伝えるのにつたない言葉しか見つからなくても、聞く人がそれを理解してくれる。そこにイエスが約束された聖霊が働いています。とても赦してもらえないような過ちが赦されて、さらに人を赦してあげる力をいただいたと感じるなら、そこに聖霊が働いているのです。

今この時代にも、イエスが約束された聖霊は働き続けます。神の言葉を届けることや、赦された者として人を赦して、聖霊が今も働いていることを人々の前に証ししましょう。特に堅信の秘跡でいただいた聖霊の七つのたまものが、わたしたちの中で十分に働くように、このミサの中で取り次ぎを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼いつもと反対のことをするというのは、よほど意識しないと難しいものだ。野球で右バッターボックスに入って打つ選手に、左バッターボックスに入って打ってみろと言われても、体の動きをすべて反対に使うのだから、簡単なことではない。
▼わたしは週に2回ミニバレー(ソフトバレー)をしているが、アタッカーのポジションに入った時、利き腕が左なのでセッターにトスをしてもらうと左手で打つことになる。だがすべての球を左で打ちやすくトスしてもらえるわけではないので、とっさに右で打つこともある。その場合は打った球はかろうじて相手コートに入るだけで、決定力はないからほとんど拾われてしまう。
▼反対のことをしろと言われると、ほとんどのことが難しいのだから面白いとは感じないだろう。だが、わたしが体験した中で、反対の動作がおもしろいというものに出会った。鯛ラバーでの釣りである。ふだんと正反対のことを意識するのがこれほど面白いとは、体験するまで分からなかった。
▼ほとんどの釣りは、「誘いをかけ、竿先に反応(当たり)があったら、タイミング良く合わせを入れる」というのが基本中の基本である。10年ほど前に出会った人からは、「コツっとアタリがあってから合わせるのでは間に合わない。『コ』と『ツ』の間で合わせなければ魚はかからない」と言われたことがあった。それほど、タイミング良く合わせることが本来は求められる。
▼ところが、鯛ラバーでの釣りは、この原則から完全に外れている。まず誘いをかけない。普通であれば竿で仕掛けを上下して誘いをかけるのだが、この鯛ラバー釣りでは誘いはいっさいかけない。海底に仕掛けが届いたら間をおかずに一定の速度で仕掛けを巻き続ける。途中で糸を止めることすらしない。
▼次に、もっとも違和感があるのが「当たり」を感じたときである。釣り人は、当たりがあると反射的に合わせを入れようとするものである。針掛かりをさせようと本能的に動くのである。ところが、鯛ラバーの釣りでは合わせは禁物。合わせを入れることがむしろ魚をばらす(逃がす)原因になりうるのである。
▼反射的に出る反応を意識して出さないようにする。口で言うのはやさしいが実行するのは難しい。犬をペットにしている人は、犬に「待て」を教え込む難しさをよく知っているはずだ。大好きなおやつを前に、「待て」と命令して30秒、1分と待たせる。簡単でないのは飼っている人ならよく分かるだろう。嫌いなことを我慢しているのではない。大好きなことを我慢するのである。これはかなりの訓練が必要である。
▼犬と同じではないが、魚の当たりを感じて、とっさに合わせようとするのを「待て」と頭に命じる。最後まで合わせてはいけない。向こうから針掛かりするまで、一定の速度で糸を巻き続ける。「釣ろうとしない難しさ」が、かえって面白い。釣れるから面白いというよりは、この「いつもと正反対の釣りの難しさ」に、今ははまっている。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===