聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)

聖木曜日に、イエスが弟子たちに示した愛を、「御自分を裂いて与える愛」と話しましたが、今十字架上でわたしたちのためにいのちをささげてくださったイエスこそ、「御自分を裂いて与える愛」そのものです。

十字架にはりつけにされたイエスは「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」(19・34)とあるように、引き裂かれ、血と水とが流れ出て、全人類のために与えられたのです。

エスは別のところでこう言っています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)しかもその与えかたは、「御自分を裂いて与える」という痛みを伴うものでした。

人類を救うために、痛みを伴わないで御自分を与え、救いのわざを完成することは可能だったのでしょうか。わたしは、痛みを伴わない愛は考えられなかったのではないかと思います。

今日の福音朗読の中に、イエスを知らないと言うペトロが登場します。不正な裁判を起こした宗教指導者たちがいます。また兵士は平手でイエスを打ち、ピラトはイエスを死刑に引き渡す裁判に加担し、その上イエスを鞭で打たせました。槍で、イエスのわき腹を刺した兵士もいます。

この人々をゆるし、救いに導くためには、痛みを伴わない愛は考えられなかったはずです。イエスはこうして、どんな人をも救うには、御自分を引き裂いて与える愛、痛みを伴う愛が必要だったのです。

わたしたちは、イエスの愛によって救われました。御自分を裂いて与える愛によって、いのちが繋がりました。そうであるなら、わたしたちは「自分を裂いて与える愛」を学ぶ必要があると思います。痛みを伴う愛を避けては通れないと思います。

では実際の生活はどうでしょうか。痛みを伴うのはゴメンだ。自分を裂いて与えるのは勘弁して欲しい。わたしたちは自分を痛めてまでは、愛を分け合えない弱い存在ではないでしょうか。

わたしたちは、自分を裂いて与える愛にたどり着いていません。そうであるなら、せめて御自分を裂いて与えてくださったイエスに、心からの礼拝をささげましょう。ゴルゴタの中央にあるいのちの木から、イエスが御自分を裂いて与えてくださったので、わたしたちは罪がゆるされ、救われたのです。

このあと、十字架の礼拝をいたします。人間の罪をあがなうために、痛みを伴う愛をなかなか実行できないわたしたちの救いのために、イエスは十字架にはりつけにされました。心からの礼拝をささげて、イエスの前にへりくだりましょう。せめて、わたしたちの心を裂いて、イエスにすべてを委ねましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼生と死の境目は、そんなに極端な切り替え作業をする場所ではないのかも知れない。わたしが知っている何人かの人は、集中治療室にわたしがたどり着いて間もなく医者から「○時○分、ご永眠です(ご臨終ですだったか?)」と宣告を受けた。
▼かつてわたしの中では、生死の境目というのはかなりはっきりしていて、とても大きな変化がそこで見られるものだという思いがあった。言ってみれば、生きている人が突然死体になるような、そんなものだと思っていた。しかし事実はそうではなかった。
▼わたしが父を看取ったときもそうだったが、さっきまで息をしていたのが呼吸が亡くなり、死の宣告を受ける。体はまだ温かい。手を握ろうと思えば握ることもできる。だがその相手はすでに死亡していて、徐々に、死体になっていくのである。
▼本人にとっての、生死の境目はどんなものなのだろうか。もしかしたら、「あれ、今死んだのかな?」くらいの変化しかないのかも知れない。突然の停電のような変化ではなく、痛みが感じられなくなったり、手で触る感覚がなくなったり、そうやってゆっくりと「死んだのだな」と納得するのかもしれない。
▼初めて聞く人はビックリするかもしれないが、病者の塗油は仮に本人が医者から死の宣告を受けても、体が温かいうちは(1時間くらいか?)秘跡を授けることになっている。医学的には死の宣告を受けているが、魂はゆっくりと肉体を離れる、ということなのだろう。
▼時に病者の塗油を授けに行く司祭は、残酷な場面に遭遇することがある。秘跡を授けている間に容態が急変し、医者から宣告を受けたりする。すると、家族は泣いている一方で、秘跡を授けに来た司祭に感謝の言葉を述べなければならなくなる。
▼司祭も、医学的には間に合っていない場面で授けているとき、かける言葉が見つからなかったりする。生死の境目では、神だけがふさわしい言葉を知っている。神だけが知っているふさわしい言葉は何だろうと、たまに思い巡らすことがある。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===