聖木曜日(ヨハネ13:1-15)

選ばれた福音朗読は、「弟子の足を洗う」場面でした。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13・1)となっています。イエスの深い愛は、弟子の足を洗う場面と、このあとに続く最後の晩さんの場面を貫くテーマです。

弟子たちに注がれた「イエスの深い愛」を、何か違う言葉で言い表すとどうなるでしょうか。わたしは「御自分を裂いて与える愛」と表現したいと思います。

エスは、「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たこと」(13・1)を知った上で、弟子たちの足を洗っています。この世の別れを意識して取った一つひとつの行いは、本当は「胸を引き裂かれる思い」に基づいていたのではないでしょうか。

エスはご自分の深い愛を、さまざまな形で伝えます。弟子たちの足を洗う行為も、このあとに続く最後の晩さんもそうです。マタイ福音書によれば、最後の晩さんで、「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた」(マタイ26・26)とあります。

引き裂かれたパンは、いわばイエス御自身です。御自分の体を引き裂いて、弟子たちのいのちを養うと約束してくださったのです。愛情深い親が、子に対してどんな苦労も厭わないことをだれもが体験しています。自分を引き裂いて、子供に良いものを与える経験があれば、イエスが示そうとしておられる深い愛も、よくお分かりなのではないでしょうか。

「引き裂かれる思いの中で弟子の足を洗う」「パンを裂いて渡す」イエスには、御自分の姿を弟子たちに受け継いで欲しいという思いがあったことでしょう。これまで、イエスが群衆の求めに応じる場面は、しばしば困難を伴う場面でした。

解散する様子のない群衆に食べ物を与えたり、叫びながらついて来る女性の願いを叶えてあげたり、近くの町や村を残らず回った上に、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆を見て、深く憐れまれたりといったことです。

もし決められた時間の中で活動しておられたら、「時間になったのでまた明日お世話します」という対応をしたかもしれません。イエスが語ったたとえ話の中にも、「もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」と答えることもできるでしょう。

けれども、イエスはどんなときにも御自分を引き裂いてお与えになります。それは、とくに弟子たちに模範を示すためです。ゆだねられた羊を深く愛するとは、自分自身を引き裂いて与えることだ。それが、弟子たちに託した遺言なのです。

もちろん、それが簡単なことだとは思っていません。わたし自身、仕事を中断したくないと感じているときに何かの用事に応対するのは辛いと感じることがあります。相手の立場に立ってあげられないことがあります。間違い電話が最近立て続けに掛かり、「大谷さんですか」という電話には、とうとう「ここは浜串教会だ」怒鳴ってしまいました。

そんな、欠点だらけのわたしたちに、イエスは御自分を引き裂いて与えるという模範を示してくださるのです。弟子たちの足を洗うとき、もはやこの世の別れだという引き裂かれるような思いがあり、最後の晩さんでパンとぶどう酒のもとに御自分をお与えになるときも、裂いて弟子たちに与えました。明日記念するイエスのご死去も、裂いて御自分を与えるその頂点だと思います。

裂いて与える姿は、弟子たちを極みまで愛するイエスによって示されました。イエスが、わたしたちの考え方や振る舞いの物差しです。わたしの物差しは、イエスが示す物差しと同じにできているだろうか。このミサの中で考えることにしましょう。

足を洗う式、「洗足式」がこの説教に続いて行われます。足を洗って奉仕する司祭も、洗っていただく信徒の皆さんも、イエスの深い愛、「裂いて与える愛」を学び合うことにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼ここ数年、聖週間の説教を「聖なる三日間の典礼」が始まるまでに用意し、印刷して信徒に配ったりしている。もちろんこのメルマガを利用している人なら、パソコンから「話の森」ホームページに入ると、PDF形式での聖週間の説教をひとまとめにして受け取ることができる。
▼始めたきっかけは、わりあい高尚な理由だったと思う。「『聖なる三日間の典礼』に、すべてあずかることのできない人もいるに違いない。そういう人に、せめて説教だけでも届けたい。」最初はその一念だけで続けていたが、最近はそうでもない気がする。
▼それはつまり、「続けてきたからやめられない」「続けてきたのを中止して、みんなに何かを言われたくない」そんな低俗な動機に変わりつつある。本当に、読者の利便性のために続けているとは言えない気がする。
▼たしかに役には立っているだろう。前任地では教会の玄関にある説教プリントを手に取って「こんなことまでしているんですね」とたいへん喜ばれたこともある。だから結果的には意味あることをしているのだが、その何というか、熱意が以前ほど湧かない。
▼けれどもこの取り組みは続けようと思っている。聖週間を自分自身実りあるものにする助けになっているのだから。だれかのために準備して、自分のためにもなっているなんて、こんなにありがたい仕事はそう見つからないはずだ。
▼何年も続けているから、そのうちに数年分まとめて見るのもよいかもしれない。自分がその年の聖週間にどんな過ごし方をしていたのか、そのあたりも見えてくるだろう。この時期がやって来ると、「あー、脇目も振らずに身を投じるのも悪くないなぁ」と思う。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===