受難の主日(マルコ15:1-39)

長崎教区の司祭の異動が発表されました。ほとんどが、若い司祭の転勤でした。上五島地区は、今年の移動にはだれもかかっていません。また今年度も、現在の体制で司牧活動が進められていきます。詳しいことはよきおとずれ4月号がもうすぐ届きますので、そちらをご覧ください。ちなみに、2月26日に叙階された大水満新司祭は、浦上教会の助任司祭として、今日から浦上で働いてくれることになっています。

聖週間が始まりました。特に聖なる三日間は、都合をやりくりして典礼にあずかってほしいと思います。今年は聖木曜日が福見教会で夜7時、聖金曜日が浜串教会で夜7時、復活徹夜祭は福見教会夜7時と浜串教会夜9時です。復活の主日のミサは、浜串教会が朝7時、高井旅教会が朝9時です。それぞれの教会はもちろんですが、できればお互いの教会に行って、三日間の典礼をすべて参加してほしいと思います。

実際には、参加が難しい方もいらっしゃるでしょう。そのような方のために、予定では聖木曜日までに聖週間の説教をすべて準備して、プリントにまとめて配りたいと思っています。高齢や病気などで参加が難しい人は、木曜日までに教会の入口にプリントを用意したいと思いますので、この期間の補いにしてください。

さて、今年の受難の主日にあたって、役割分担をした受難の福音から、群衆役をした皆さんの言葉を1つだけ取り上げたいと思います。群衆役のみなさんが出した言葉は何だったでしょうか。あれこれ言ってないので、すぐに思い出せるはずです。群衆はただ一言、「十字架につけろ」と叫んだのです。

「十字架につけろ」という言葉は、イエスを死に追いやる言葉です。確実に、イエスを亡き者とし、排除する言葉です。さまざまな言葉が飛び交う中で「十字架につけろ」という言葉が聞こえたのではありません。群衆が皆、いっせいに「十字架につけろ」と言ったのです。ですから、イエスを取り囲む群衆皆が、イエスを十字架につけることに加担したことになります。

群衆が十字架につけたのは、イエスお一人だったでしょうか。もちろん、イエスを十字架につけたのですが、「自分にとって都合の悪いことから逃れたい」そういう利己心に関わるものすべてを、イエスに背負わせて十字架につけたのではないでしょうか。

本来なら、自分で背負わなければならない罪を、わたしたちはいろんな理由をつけて逃れようとしています。今日だけ人をだましてやり過ごそう、この場だけ嘘を言って逃れよう、他人は死んでもしかたないが自分は死にたくない。そんなあらゆる利己心が、「十字架につけろ」この一言に込められているのではないでしょうか。

マルコ福音書は、イエスが十字架に磔にされてから発したのは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉だけでした。

群衆に向かって、「あなたたちは、何も十字架につけるものはないのか」と追及することもできたはずです。けれども、イエスは御父のみ旨だけを尋ねて亡くなりました。わたしたちが十字架に磔にしなければならないものをすべてイエスが引き受けて、御父にゆるしを願ったのです。

この一週間、イエスが成し遂げてくださる救いのみわざを一緒にたどっていきましょう。わたしたちには何も手を出すことのできないイエス尊いみわざを、できれば三日間通して、この目に焼き付けることにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼聖週間が始まった。この1週間は1年のどの季節よりも頭の回転を速くして過ごさなければならない。受難の主日の説教に始まり、聖木曜日・聖金曜日・復活徹夜祭・復活の主日と、連続で説教が続き、それをメルマガで配信させなければならないからだ。
▼さらに加えて、できればこの説教を材料にして、小さなプリントを作りたいとも思っている。それは、聖なる三日間をすべて参加できない人のため、また、この三日間を病院で過ごす人たちのためだ。
▼ここ数年は、プリントも用意してきたのだが、去年はプリントの売れ残る率が多くて(もちろん無料。販売したわけではない)紙の無駄ではなかろうかと思ったが、ほんのわずかだが「とてもありがたい」という声もあったので、今年も続けようと思う。
▼浜串教会の聖書朗読担当は、間違いが無いように決められていて、特に毎月第1日曜日は中学生と決まっている。ということは受難の主日の聖書朗読は中学生が担当ということになる。それは自動的に、福音朗読の受難の朗読も、中学生が役割分担に加わって手伝うということを意味している。この「ちょっとひとやすみ」を書いている時点では結果がどうなったのかは分からないが、きっと予想通りにはならないと思っている。
▼聖週間が始まると復活のお祝いがやって来る。やはり復活祭は、洗礼式があって、新しい神の家族が増えることがいちばんの楽しみだが、ここ2年、その喜びが味わえていない。ひとえに主任司祭の努力不足である。何か知恵を絞って、洗礼の喜びを皆で味わえるように、働きかける必要がある。
▼先週の新司祭初ミサの会場では、ある教会の主任司祭が、とある家族に働きかけて、その場で洗礼の約束を取り付けたと聞いた。何という早業。きっと何かが違うから、働きかけも力がありその結果も違ってくるのだろう。次の季節に向けて、すでに動き始めなければならない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===