四旬節第1主日(マルコ1:12-15)

説教の前に、福見教会は来年4月に教会献堂百周年を祝おうとしています。福見教会では、信徒が一致してこの日を迎えるために、標語を募集しました。すべての応募の中から、百周年の準備会議のメンバーが5つを選びまして、その中から1つ、教会の垂れ幕にしたいと思っています。福見教会の方々は、必ず5つの候補のどれかに、1票を投じていただきたいと思います。

今日、浦上教会で叙階式が行われますが、わたしにとっての叙階式はほろ苦い思い出です。叙階式の前日、浦上教会の真下にあるカトリックセンターで叙階式を受けるわたしたちは明日に備えて泊まっていました。すでに島本大司教さまから浦上教会で働いてくださいと任命されていたこともあって、夜になってもなかなか寝付けませんでした。

「落ち着け、落ち着け」そう思うのですが、どうしても眠くなりません。そうしてようやく眠りについたのが2時頃だったのでしょうか。わたしは夢を見ていました。叙階式がすでに終わり、祝賀会が浦上教会の信徒会館で行われていたのです。

わたしのほかに、2人が司祭に叙階されることになっていましたが、その2人は無事に叙階式を終えて舞台に上がり、皆さんから祝福を受けていました。そしてわたしは、なぜかパジャマ姿で、司祭に叙階された2人のお祝いをしている信徒会館の外に立って中を覗いていたのです。

ビックリして、飛び起きました。時間は朝の4時、まだ辺りは真っ暗です。「あー、夢か。」夢でよかったですが、この先が思いやられるなぁと思ったのを覚えています。興奮して、そのあとは結局眠れませんでした。

今になって思うのですが、あの夢はわたしに1つのことを教えてくれていたのだと思います。それは、司祭に叙階されるというのは純粋に神の恵みによるものだということです。わたしは司祭に叙階されることが許されて、前日カトリックセンターに待機していました。朝目が覚めれば、当然司祭に叙階される。わたしはそう思っていたのかもしれません。

ところが、イエスはわたしに違うことを教えようとしておられました。あなたは寝坊して、司祭叙階式に間に合わなかった。あなたの準備は十分足りていたけれども、夢の中ではわたしがあなたを呼ばなかったから、あなたは司祭に叙階されなかった。司祭叙階の恵みがどこから来るのか、もう一度よく考えなさい。そういうお告げだったのでしょう。

今であれば、イエスがわたしに教えようとしていることはよく分かります。司祭の務め、たとえそれが、どんなたやすい務めでも、神の恵みがなければその務めを果たすことはできないのです。司祭はだれかのために祝福を祈ることができます。ロザリオなどの信心用具の祝別、御像や十字架像の祝別も、特別な技術は何も必要ではありませんが、神の恵みがなければわたしは無力なのです。

一切を、神に頼って生きている。一切を、神に頼って果たす。そういう生き方を忘れてはいけないよと、叙階式の直前に夢の中で念を押してくださったのだと考えています。

今週の福音朗読はとても短いのですが、イエスが誘惑にさらされて、それと戦って打ち勝つ場面と、最初の宣教活動の様子が生き生きと描かれていると思います。わたしは、自分の叙階式にまつわる苦い思い出と重ねて考えました。

直前の誘惑、神に信頼することだけが、誘惑に打ち勝つ方法です。自分は鍛えているから、自分は長い訓練を受けているから誘惑に勝てる。そんなものではないのです。自分の力に頼ってはいけないことをよくよく教えるために、イエスが父なる神に信頼して過ごした四十日間を紹介するわけです。

人が過ちを犯さないためのいちばん確かな道は、神に全面的に信頼することなのです。わたしは配偶者を愛している。わたしは自分の愛情に絶対の自信を持っている。そうかもしれませんが、それは誘惑に打ち勝つ最高の武器ではないのです。自分に頼ろうとするとき、悪魔は巧みにその隙を攻撃してきます。

わたしはイエスさまを愛してこの奉献生活を生きている。わたしの愛は揺るがないから、誘惑に打ち勝つことができる。そういう思いは、悪魔が誘惑する格好の材料になってしまいます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1・15)この一言を人々に告げ知らせるとき、わたしは神に信頼して声を上げるのです。宣教開始までの準備が万全であっても、自分に信頼するのではなく、先に宣教に出かけられたイエスに信頼してついて行くのです。

これは、生き方をすっかり変えることでもあります。神への信頼を土台に置いた生き方。どんなに得意なことでも、自分に信頼するのではなく、最後まで神の導きにだけ信頼を置いて務めを果たす。徹底してこの生き方を貫く人は、四旬節の回心を果たした人なのだと思います。

どうか、今年の四旬節が、わたしの中にあるわずかな自信さえも砕いて、神に信頼することだけを追い求める四十日でありますように。神に信頼することより確かな道はないと、人々に証言できる人にわたしたちを造りかえてくださいますように。

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ちょっとひとやすみ
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▼初聖体式が、来週日曜日、3月4日と迫ってきた。毎年、主任司祭からのプレゼントはロザリオなのだが、「五大陸ロザリオ」というのを手に入れたので、それをプレゼントする予定である。
▼ロザリオがそれぞれの神秘ごとに色分けされているロザリオで、「青・黄・緑・赤・白」それぞれが大陸を表している。世界平和のために祈る趣旨らしい。子どもにそれが理解できるとは思わないが、「今、青の何個目を唱えているのよ」と促して、ロザリオを繰る練習にはなるだろう。
▼先週ワインの話をしたと思うが、そのワインが無事に届いた。1本は、「シャトー・ローザン・ガシー1966年」、もう1本は「シャトー・カルディナル・ヴィルモリーヌ1966年」となっている。名前を聞いても、実際には口に含んでも、どれくらい美味しいのかも分からず飲むのだから、これ以上の贅沢はない。
▼味が分かる人が、「この値段にふさわしい」と納得して味わうなら、それは贅沢ではないと考える。味の分かる人が飲んでいるのだから、ふさわしい楽しみ方だ。わたしは味も何も分からずに美味しいであろうワインを飲もうというのだから、贅沢なのである。
▼1本は、紹介していた同級生の司祭にプレゼント。1本は、自分で飲むが、予定では、黙想会の指導に来てくれる説教師の司祭と飲む予定。どのみち1人では飲み終えることはできないのだから、2人で楽しく飲めれば一石二鳥である。
▼そう言えば、説教師の司祭に泊まってもらう部屋が、テレビも何もないため困るだろうと思い、配線工事を予定している。にわか工事を引き受けてくれた信徒の方と、屋上の配線を見に行った。どのように分配すればよいかを検討するためである。
▼登ってみて分かったが、やはりわたしは高所恐怖症なのだと再確認した。手すりも何もない屋上に立ってみて、真ん中にいてさえも足がすくんで動けない。これはたまらないと、信徒のかたに訳を言ってすぐ降りることにした。信徒のかたは客室まで何メーター、屋上から垂らして何メーターと、屋上から2階の窓をのぞき込んでいた。落ちはしないのだろうが、わたしだったら気を失っているだろう。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===