年間第32主日(マタイ25:1-13)

年間の主日も、残り少なくなってきました。今週が年間第32主日、来週が年間第33主日、再来週の「王であるキリスト」で年間の主日も終わり、そのあとは待降節で新しい典礼の暦が始まります。

年間の主日が終わりに近づくと、この1年の信仰の面での歩みを振り返ることも考えておくとよいと思います。わたしは、待降節から始まった教会の1年の歩みを、どのように進めてきただろうか。何か目標をもっていた人は、目標を達成できただろうか。そういうことを、これから残りの2週、3週の間で考えてみましょう。

今週の福音朗読も、典礼暦が締めくくりに近づいているという見方で読むとき、見えてくるものがあると思います。今週は「十人のおとめ」のたとえですが、十人のおとめたちは花婿を迎えに出て行きます。おとめは十人、花婿は1人ですから、ここで言うおとめは、「教会」を指し、花婿は「イエス・キリスト」を指していると考えるべきです。

花婿の到着が遅れたために、十人のおとめたちは皆眠り込んでしまいました。教会が、イエス・キリストの到着を待ち切れずに眠り込むというのは、一心にイエス・キリストに心を向けていない姿です。

本来は、わき目も振らず、気を緩めることなく、イエス・キリストの到来を待ち望むべきですが、人間の弱さのために心が向いていないこともあるかもしれません。そのたびに花婿であるイエス・キリストはわたしたちのもとに来て、準備を促します。「花婿だ。迎えに出なさい。」(25・6)

ところが、十人のうち、五人は愚かで、五人は賢いおとめです。わたしたちも同じかもしれません。神の民の半分は準備が不足していて、半分は備えができている。確かにそうかもしれません。ともし火は、花婿であるイエス・キリストがここにいると、周りの人に知らせるものです。

人によってその中身は違っているわけですが、どんなときにも祈りをためらわないことは、イエス・キリストがここにいることを知らせる1つのともし火だと思います。また、服装や、態度や、話す言葉、何を大切に考えているかなども、イエス・キリストの現存を知らせるともし火になると思います。

こうしたともし火は、油を切らしてしまうといつか消えてしまいます。ともし火を絶やさないための「油」とは、いったい何なのでしょうか。答えを探す時、頭の中を探してはいけません。答えはいつも、朗読した聖書の中から探すべきです。そこで、もう一度油についておとめたちが何を語ったかを確かめましょう。

「賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。」(25・4)本来、ともし火を絶やさないために、常に油を用意していなければならないのです。油はまずは、常に身近に用意しておくべきもののようです。

愚かなおとめは、「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。」(25・8)と賢いおとめにすがります。けれども賢いおとめたちは、「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」(25・9)と答えました。油は、自分の分は自分で用意しなければならないこともここで分かります。

この2つの点を踏まえて、「油」は何を意味しているのでしょうか。油があって、ともし火となる。油があって、イエス・キリストを人々に知らせることができる。すると、油は、わたしたち1人1人の「善い行い」のことかもしれません。

わたしたちは、「善い行い」を常に身近に用意する必要があり、しかも、自分の分は自分で用意しなければならないということになります。愚かなおとめたちが店に行って自分の分を買いに行くというのは、「出かけて行って善い行いを実践して、それから戻ってくる」ということなのでしょう。

さて、「愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた」(25・10)とあります。

善い行いを常に実行している賢い人は、いざという時に用意ができていたので間に合いました。けれども善い行いを常に心がけていない愚かな人は、いざという時に間に合いません。

これは、年間の主日をもうすぐ終えるわたしたちに、あなたは善い行いを、常に身近に用意できていますか、あなたの善い行いをわたしに示してくれと言われたときに、賢いおとめのようにすぐに用意できますかと問いかけているのだと思います。

自分の分の油、イエス・キリストを周りの人に知らせる善い行いが、今年1年の信仰の歩みの中で身近にありましたかと、問いかけているのです。用意ができていないことに気付き、慌てて外に出て善い行いを実行し、それを持ち帰っても、間に合わないかもしれないのです。

そこで今週の福音の学びとして、「自分の分の油を常に保つ」ということを考えておきましょう。あなたが身近に用意している油が、周りの人にイエス・キリストを証しするともし火となります。油は、十分に用意しておく必要があります。

あなたに求められる証しは、ずっと長く続ける必要があるかもしれません。今年限り、とは限りません。ずっと、その油を使って、周囲の人に、場合によっては遠くにいる人に、ともし火を見せてあげるようお願いされるかもしれません。

花婿であるイエス・キリストの願いに、たとえ到着が遅れることがあっても応じることができるように、常に壺の中の油に注意を払いましょう。聖霊に、「わたしの壺の油をたえず満たしてください」と、ミサの中で願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼来週(日)午後2時から上五島地区の堅信式が行われる。大司教さまがおいでになり、おもに中学2年生を対象に、聖霊の恵みを願う式である。かつてはこの堅信式の準備に親も子も必死になり、堅信が受けられなかったら大変と、神経をすり減らしていたものだ。
▼その伝統は今でも少しは受け継がれていて、やはり堅信式を受けることは大切だという認識はあるようである。ただそれが、万難を排して、というものでなくなっていることも肌で感じる。かつていた任地では、うちの子は受けさせなくてもよいと告げられ、わたしが親を納得させて堅信を受けさせたこともある。
▼準備のための取り組みも、ずいぶん様変わりした。これまでは教会の教えを網羅した「公教要理」という手のひらに収まるほどの小さな本を丸暗記して、教会の教えを隅々まで学んだものである。確か400問くらいの問答集で、わたしもある程度は勉強した。
▼「ある程度」と言ったのは、2つ理由があって、1つは中学1年から神学校に入ったので、「公教要理」を暗記する必要がなくなったことと、要領がよかったので丸暗記はしなかったからだ。
▼小学6年、中学1年、中学2年が堅信の準備を3年かけて行うグループだったと思う。わたしは小学6年の時にこのグループで共に学んだ。学期ごとにいつも口頭試験があり、「秘跡とは何ですか」「秘跡にはいくつありますか」とか、学期中に習った部分を試験範囲にして、主任司祭が口頭試験をする。
▼ほとんどの生徒は、すべての試験範囲を完全に暗記して試験に臨んでいた。残念ながら暗記が苦手な子は、すべてを覚えることができず、さらに緊張のために頭が真っ白になって、試験をパスできない子もいた。彼らは補習を受けたり、場合によっては落第して一緒に堅信を受けられない子もいたらしい。
▼わたしは、その試験の会場で、質問される10問だけを必死に覚えてその場をいつも切り抜けていた。主任司祭の質問の傾向をうかがっていると、1人目には「1、11、21、31・・・」と質問をしており、念のため2人目も3人目も確認したが、「2、12、22、32・・・」「3、13、23、33・・・」と規則的に質問を当てている。
▼これはつまり、自分の順番を確認すれば、そこだけ覚えておけばよいということがわかり、慎重に自分の順番を確認し、35番目であれば、「5、15、25、35・・・」だけを10個覚えて試験に臨んだのである。もちろん、ほかの質問があてられたら1つも答えられないが、小学6年生時代の3回の試験とも、すべて満点で切り抜けた。
▼そんな記憶と、今の堅信を受ける子供たちとをどうしても比較してしまう。かつての学ばせ方も問題があったかもしれないが、今の子供たちには本当にどう教えてよいのかわからない。去年と今年でも違う。そんな中で、苦労して学び、祈り、ミサにあずかった子供たちが、5日(土)の晩にリハーサルをして、いよいよ13日(日)には堅信を受ける。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===