年間第23主日(マタイ18:15-20)

最近ツキのないことがいっぱいですが、そんな中でも、嬉しいことが1つありました。木曜日は浜串教会と福見教会両方でミサをする日ですが、夕方の福見教会のミサで外国人がミサに参加していたのです。

わたしはてっきり、「あー、2学期に入ったから、新任の英語教師がミサに参加しているのだな」と思いました。とても敬虔な人のようで、日本語のミサは理解できてなかったようですが、皆と一緒に立ったり座ったり、お辞儀をしたりしていました。

ミサが終わったので、わたしは「新任の英語教師ですか?」とだけ話しかけようと思っいました。ところが、聖堂を出て来たその青年は、いかにも旅行者の格好をしていました。とっさに、「これは英語教師ではないな」と判断して「旅行者ですか?」と聞きますと、「自分は東京に住んでいて、日本のキリスト教の歴史を研究するために、長崎を回っている」という話でした。

もっと細かい話をしたのですが、この説教には直接関係ないので省略します。1つ嬉しかったことと言うのは、わたしの英語が通じて、しかもその外国人から「あなたの英語はファンタスティックだ」と言われたことです。

実はわたしは英検4級しか持っていません。本当は3級を取る自信があったのですが、高校生の時同級生が3級を確実に受験しているのを見て、かっこつけて2級を受験したのです。ところが、1次試験はパスしましたが、2次の1対1での面接試験で舞い上がってしまい、1点足りずに不合格になったのです。本当の力がないからです。

これでずいぶん凹んでしまい、以後英検を受けませんでした。そのため、資格としては4級止まりなのです。そんな4級しか持たないわたしでも、相手の質問を聞き取り、自分の言いたいことを何とか言うことができ、しかも通じたのですから、最近の不幸続きの中ではかなり嬉しい出来事でした。木に登りたいくらいの気分です。

この外国人の人との会話で、五島の教会の将来について、心配しているかという話が出ました。心配していると答えました。実例を挙げて、大変心配な状況であると話したかったのですが、わたしの言葉が足りず、うまく話せませんでした。そこは悔しかったです。その外国人とは、今後英語のメールでやり取りすることにしていますから、言い足りなかったことをきっちり伝えたいと、今は頭の中で言葉を探しています。

さて福音ですが、次のイエスの約束に注目してみました。「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(18・19)わたしの今の願いは、五島に住んでいるカトリック信者皆が、五島でカトリックの信仰を守ることができて良かったと、心の底から言える信者になってほしいということです。

実は先の外国人との話の中で、五島の印象を尋ねたところ、彼は五島の教会にいたく感激したと言っていたのです。彼も、キリスト教の信仰をすばらしいと理解していて、研究するだけではなくてミサにも参加していたのですが、五島の教会の雰囲気、五島のカトリック信者の雰囲気には特別に感激したというのです。

信仰がすばらしいものだと理解することと、そのすばらしさからさらに感激するということとは違いがあります。信仰が立派なものだと理解していても、ちっともミサに来ない人はいくらでもいます。けれども、そのすばらしさに心を打たれた人であれば、たとえばミサに行かないで居続ける、祈りをなおざりにし続けることはできないのです。

そこで、なぜ五島に住んでいてカトリックの信仰を守ることがすばらしいことなのかを考えてほしいと思います。わたしたち五島のカトリック信者の祖先は、西彼杵半島の外海地方から来ている人がかなりいます。外海地方での迫害を逃れて、五島に移住してきたのです。

ではなぜ、五島に移住してきたのでしょうか。何か魅力があったから、何か惹きつけるものがあったから、五島に渡ったのではないでしょうか。五島では迫害がないと聞いたのでしょうか?

鯛ノ浦にはキリシタン6人斬りの記録があります。他にもたくさんの迫害の言い伝えがあります。皆さん自身も、迫害を受けたかもしれません。下五島でも同じです。迫害がなかったわけではないと思います。

わたしが1つ考えるのは、外海では、産児制限を厳しく命じられていましたが、五島ではそのようなことはありませんでした。生まれたすべての子の命を考えて、五島に渡ったのではないか。そう思います。

もちろん、これがすべてではないでしょう。けれども先祖たちは、五島ではだれの命も見捨てることなく、信仰を守ることができることを心の底から喜んだのです。わたしたちにも、その気持ちは大いに必要なのではないでしょうか。

五島にあって他にないものを、具体的に言葉にできる人になりましょう。わたしは五島で信仰を守ることができて本当に良かった。そう言える理由を、見つけましょう。わたしは40歳を過ぎてようやく、五島で信仰を養ってもらったので、司祭になれたのではないか。そう思えるようになりました。

五島にいる今の子供たちも、育ててもらった信仰は、五島だけのすばらしいものを持っているから、大事にしなさい、もしできるなら、偉大なことのために自分の信仰を用いなさいと言いたいと思います。

「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」道を探している子供たち、青年たちが、与えられた信仰のすばらしさを知り、偉大なことのために人生を用いるように、心を一つにして祈りましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼久しぶりに英語を話した〜って感じだった。「旅行者ですか?」「そうです。上智大学院の研究生として東京に住んでいます。」「あー、四ツ谷上智大学ね。わたしは慶応大学の通信教育を卒業するために東京に行ったから、四ツ谷の麹町教会に日曜日ごとにミサに行ってました。」
▼「そうですか。いやぁ、あなたの英語はファンタスティックだ」「いやいや、そんなに上手ではありませんよ。あなたのこれからの予定は?」「高井旅で18時30分のバスに乗って次の予定地に行きます。」「じゃああの道を使うと近道です」「助かります。本当にありがとう」「ちょっと待って。この時間だと歩いたら間に合わないよ。車で送るから。」
▼「え?本当に?助かります。」「ところで子どもたちはミサの後なぜ帰らずにいるのですか?」「彼らはミサの後教会学校の時間なのです。」「なるほど。ではすぐに戻ってあげてください。」「ところであなたは五島の教会について心配していますか?」「心配していますとも。(本当は、高齢化、少子化、過疎化などの現象を説明したかった)」
▼「それはほかの司祭たちも同様ですか?」「同じです。どの司祭も、五島の教会の将来を心配しています。」「それは上五島だけですか?福江も同じですか?」「福江も心配です。同じ問題を抱えていますから。」
▼これだけの内容を、片言ではあるが英語でやり取りした。さらにメールアドレスを伝えたので、東京に戻ったらメールが来るだろう。何か、彼の研究の助けになれるかもしれないし、彼と交流を持ち続けたら、ある日役に立つかもしれない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===