年間第18主日(マタイ14:13-21)

先週今年の初泳ぎをしました。去年もそうでしたが、小学生の子供たちが司祭館のチャイムをピンポンピンポン鳴らして、「神父さま、一緒に泳ぎに行きましょう」と誘いに来ました。この小学生たちは保護者同伴でないと泳げないので、わたしは自分たちが泳ぐための「道具」だったんですけど、それでも誘ってもらったおかげで泳ぐことができました。

小さな子どもたちがほとんどで、浮き輪が頼りという状態でした。5人のうち浮き輪なしで泳ぐことができたのは1人だけ、その割には浮き輪2個に対して4人が群がる状態でした。次の時までに、わたしが浮き輪を2個買って、1回50円で貸そうと思います。

来週、小学生たちは上五島の11の教会が集まってドッヂボール大会です。保護者の方、地域の方々も、応援に来てください。わたしはつい口を滑らせて、「優勝したら、ハウステンボスに行こうか」と言ってしまったので、決して優勝しないように、応援に来てほしいと思います。

今週朗読されたのはイエスが五千人に食べ物を与える奇跡物語です。ご存知かもしれませんが、このパンの奇跡の物語は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ、四つの福音書すべてに記録されている物語です。その中で、マタイよりも早くに書き残された、マルコ福音書のパンの奇跡物語と読み比べると面白いことがわかります。

ほとんど、マルコとマタイの記述は共通しているのですが、イエスが五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱えた後、マルコは「パンを裂いて弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」(マルコ6・41)となっているのですが、先ほどわたしたちが聞いたマタイ福音書では、「パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。」(マタイ14・19)となっていて、魚のことは省略しているのです。

よくよく観察しているなら、パンのことと、魚のこと両方を書くのが自然だと思います。この違いは最後の結果にも表れていて、マルコは「パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。」(6・43)ときちんと書き残していますが、たった今読んだマタイ福音書は、「残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。」(14・20)と、ここでもまたパンのことだけ書いているのです。

これは、次のように考えるのがよいでしょう。福音書の中でいちばん早い時代に書かれたマルコは、出来事に即して物語を書き残し、マタイは何か考えがあって、パンのことだけを強調して、魚のことは省略した、ということです。パンに、特別に注意を向けている点が大事です。

皆さんも、パンに集中する場面を知っているはずです。それはミサ、イエスが残された最後の晩餐の再現の場面です。祭壇の上には、パンとぶどう酒がささげられ、イエスの御体と御血になります。司祭はそれを両方とも拝領します。信徒の皆さんは、御体のみの拝領となります。御体に集中していると言ったほうがよいでしょう。

エスさまが五千人に食べ物を与えた奇跡の場面、マタイはあえてパンだけを強調し、パンに人々の注意を向けさせようとしました。それはきっと、最後の晩餐、イエスがわたしたちのために残された決してなくならないいのちのパンのことをこの時からすでに考えて物語を書いたのだと思います。

つまり、マタイはこのパンの奇跡を通して、人を満たすのは「町や村」に行って見つける食べ物ではなくて、イエスが与える食べ物こそが、人を満たすのだと教えたいのです。パンや魚が要らないと言っているのではなく、たとえ「人里離れた所」であっても、イエスがそこにおられることで人を満たすことがお出来になる。イエスによって、わたしたちは本当の意味で満たされるというのです。

わたしたちは日々こう考えています。「食べていかなければ、後のことは何も始まらない」と。本当にそうでしょうか。わたしは小学生の時、食べ物は切り詰めているなぁと感じることがありましたが、学ぶためには、ほかのすべてを切り詰めても工面してもらいました。

祈祷書を読み、祈りの難しい漢字を学び、漢字の試験では他の生徒より頭一つ抜けていました。「いととうとく」とか、「とこしえにしろしめしたもう」とか、小学生が誰も知らない言葉の意味を教わっていました。

学校以上に教会から考え方や生き方を学び、道徳の時間に「人間は何のために生きるのですか」という題で話し合いになって、「人間は神さまの喜びとなるために生きています」と答えて、先生から変な顔をされました。

当時のことを振り返ると、わたしは神さまに育ててもらったのだと思います。栄養状態は良くなかったかもしれません。バランスの良い食事はなかったかもしれません。けれども、同学年の半分以上の人が知らないこと、さらには先生も知らないことを教会で学び、天の国の秘密を学んだ学者に育っていたのだと思います。

その少年時代を踏まえて言いたいと思います。イエスは共に手伝ってくれる人を通して、「あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい。」(14・16)と仰るのです。イエスのもとに、本当の意味で人間を養う食べ物がある、なければないで構わないものではなくて、絶対に必要な食べ物は、イエスのもとにあるのです。

ただ、上手に手分けして与えなければなりません。大人の方々には教会の評議会を通して、特に子どもたちには要理部を通して、食べ物をイエスから受け取って、与えなければなりません。さらに「すべての人が食べて満腹した」(14・20)となっています。わたしたちのお世話に問題があって、食べても満足できなかったから、ほかに食べに行こうと言われるようではいけません。工夫が必要です。

最後に、「残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。」(14・20)とありますが、これはイエスをまだ知らない人のために残った食べ物ではないでしょうか。一人一人、さらに熱意を持って、イエスしか与えることのできないパンを、より多くの人に届けましょう。そのための力をミサの中で願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼先週言いたい放題のことを並べてしまったが、今週は弁明しておきたいと思う。実はこの内容は先週の「ちょっとひとやすみ」に続けてすぐに書いておいたものである。だから、先週の内容と同時に、今週の「ちょっとひとやすみ」の内容も、考えていたということを弁明しておきたい。
▼小学生合同黙想会のミサはすばらしかった。祭壇を囲み、一つのパンから分かち合い、感動的な平和のあいさつをした。わたしは頭では子どもたちが祭壇を囲んでミサをする様子を描くことはできるが、それを実践しようという気持ちにまではなれない。
▼ところが、先週から話している先輩司祭は、こともなげにこの「祭壇を囲むミサ」を実行した。わたしの頭の中には、「まじめで頭の固い先輩が、そんな大胆なことをするはずがない」という頭があったのだが、実際には大胆だった。これまで一度でも、子どもたちに祭壇を囲ませてミサをしたことがないわたしは、あっけにとられた。
▼子どもたちは、祭壇を囲んだあの日のミサのことを忘れないだろう。もし一時的に忘れたとしても、もう一度祭壇を囲む日が来た時、自分たちが小学生の時に同じことをしたと思いだすだろう。それほど、この日の出来事は子どもたちに焼きついたと思う。
▼では、次に子どもたちが祭壇を囲む日はいつか。小学生合同黙想会で共通の体験をした地元の司祭たちが、それぞれの教会で同じことをしてあげる時がその時ではないだろうか。ただ人数が・・・いや、いろいろ考えていてはいつになってもそのチャンスは巡ってこない。わたしはどうも尻込みしそうだが・・・。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===