年間第17主日(マタイ13:44-52)

今週イエスは、天の国を宝物を探す様子に例えています。畑に宝が隠されていて、宝を見つけた人は持ち物をすっかり売り払って、その畑を買います。または、商人が良い真珠を探していて、高価な真珠を一つ見つけると、持ち物をすっかり売り払い、それを買います。あるいは、網が湖に投げおろされ、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てます。

いずれも、貴重なものを見分け、見つけたら他のすべてをなげうって手に入れようとしているのが特徴です。わたしたちは、同じような体験をどこかでしているでしょうか。わたしは、いろんな立場の人が、すでにたとえに出てくるような経験を積んでいると思います。

結婚する人は、似たような経験を積んだかもしれません。宝である配偶者を見つけた人は、持ち物をすっかり売り払って、配偶者だけを選んだことでしょう。修道者も、宝であるイエス・キリストだけを選びとって、持ち物をすっかり売り払った人々です。司祭も、イエス・キリストに従うことのすばらしさを理解し、ほかのものは投げ捨てた人々です。

こうして、いろんな立場にある人が、宝を見つけ、地上ではその宝が喜びとなり、この世を去ってからは宝を見つけたことで天の国に招かれることになります。ところで、地上にいる間に隠された宝をみつけ、天の国に招かれる人は、今話したような生き方だけなのでしょうか。

それは違います。もっとたくさんの人が、宝を見つけ、天の国に招かれます。わたしが思い付いたものを3つ紹介しておきましょう。1つは、聖書を読む方法です。ほかの1つは、祈る生活です。ほかの1つの方法は、聖歌を歌って賛美をささげることです。

今、浜串小教区内の3つの教会は、いずれも主日のミサ前に、聖書朗読にいそしんでいます。通常ロザリオが唱えられている時間に、聖書朗読の集いが開かれています。朗読CDを使って、ずっと新約聖書を読み続けています。この、読み続けている新約聖書は、いわば広大な畑です。この畑の中に、宝が隠されているのです。

わたしはこれまでに、わたしにとって大切な宝となったイエスの奇跡物語を2つ見つけました。1つは、生まれつき目が見えず、道端で物乞いをしていたバルティマイのいやしの物語です。ここで詳しい説明はしませんが、大声で、イエスに助けを求める場面が、わたしにとって大切な宝となりました。

もう1つは、ベトザタの池で38年間病気でいた人が、イエスによっていやされる場面です。イエスは38年間病気だった人に、「良くなりたいか」と尋ねました。この一言が、わたしの宝物となりました。

このように、広大な砂漠のように見える新約聖書でも、読み続ければ、聞き続ければ、きっと価値ある宝物を見つけることができます。ですから、今取り組みをしている聖書朗読の集いに、もっとたくさんの人の参加をお願いしたいと思います。

祈りの生活も、宝を見つける畑だと思います。わたしたちの小教区では、朝の祈りとして「朝の祈り二」を唱えていますが、なかなか味のある祈りです。「恵みのうちに生きる」という祈りを例に取ると、「わたしたちがきょう一日、愛のわざに励み、すべてにおいてみ旨を受けとめ、恵みのうちに成長することができるよう導いてください」とあります。わたしはこの部分だけでも、汲みつくせない宝が見つかると思いました。良くできている祈りです。

ミサの中で聖歌を歌い、賛美をささげることも、宝を見つける畑です。最近は、典礼聖歌集だけでなくて、一般の聖歌もありますし、また、短いことばを繰り返して歌う方法もあります。最近歌っているか知りませんが、「父よゆだねます、わたしのすべて。父よゆだねます、あなたの御手に」などは、繰り返しているうちに心の底から自分をゆだねてみようという気持ちになるのではないでしょうか。聖歌という畑は、確実に宝が隠されています。

まとめると、わたしたちの生活は、イエス・キリストを見つけるための広大な畑なのです。結婚によって、かけがえのない人を見つけることも、司祭や修道者になって、自分をおささげすることも、聖書の中に宝を見つけることも、祈りの生活も、ミサの聖歌も、どれもイエス・キリストを見つける畑なのではないでしょうか。

わたしたちがそれぞれの畑の中で、持ち物をすっかり売り払って、大切なものを手に入れる生き方をしていることを今週学びました。わたしたちの生き方はきっとイエス・キリストを知らない人に影響を与えます。ぜひ、イエス・キリストを知らない人にも、畑に宝が隠されていることを、生活を通して証ししましょう。証しのための力を、ミサの中で願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼今年の夏の始めは、「小学生合同黙想会」から始まった。説教でも少し触れたが、とても真面目な先輩が合同黙想会の指導をした。浜串教会は、主任司祭がただただ黙想会を楽に終わらせたい一心で合同黙想会に参加したのだが、小学生に気の毒な思いをさせたかもしれない。
▼5つの教会が小学生合同黙想会に参加した。浜串、青方、大曽、青砂ヶ浦、曽根である。その中の1つの教会の先輩が指導をした。内容は「ミサのすばらしさについて」といった感じで、ミサの構成がイエス・キリストの生涯全体と重なるというとても明快な説明があり、さらにミサはわたしたちの生活全体と結びついていることもきっちり説明してもらった。
▼論点は明快、説明も十分であったが、小学1年生から6年生まで合計120人いる今回の参加者を前にしては、いささか力が入りすぎていたかもしれない。子どもたちもそうだが、一緒にいた保護者にも、40分の話が80分に聞こえていたかもしれない。
▼ただ、ソフトな語りをするとか、楽しく話すとか、そのあたりは持ち味があったり、得手不得手があったりするので、今回の先輩にあれこれ言うのは酷だろう。むしろ、先輩らしいと言うのが正しいかもしれない。わたし自身は論点も説明をつくした内容もすべて吸収したので、いつか真似して話すことはできる。それはありがたかった。
▼心配なのは、来年の小学生合同黙想会だ。今年みっちり絞られた子どもたちが、はたして来年も参加したいと言ってくれるかどうか。また、今週は小学生に続いて中学生が同じ話を聞いての黙想会になっているが、昼食までは辛抱して聞いても、昼食を食べたらボイコットをするのではないか。心配の種は尽きない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===