年間第4主日(マタイ5:1-12a)

先週の木曜日と金曜日、マリア文庫の責任者という立場で、視覚障害者の施設に携わる責任者の情報サービスに関する全国研修会に参加してきました。

簡単に説明しますと、視覚障害者のためにボランティアで活動しているマリア文庫が、全国の視覚障害者団体の中でどのような位置づけにあるのか。全国の視覚障害者団体としてはどのような方向に進むことを目指していて、マリア文庫はその目標に向かってできていることは何か、これから必要なことは何か。

また、今後増えてくる視力に不自由を感じる方々、糖尿病で視力を失った人もこの中には含まれますが、こういった方々に、より多くのサービスを提供する可能性の高い取り組み(「サピエ」と言います)についての説明、そういったことでした。

研修は以上の内容ですが、せっかく大阪まで行ったので、お笑いを見てこようと思いまして、難波グランド花月に行ってお笑いのステージを見てきました。

面白かったですね〜。若手芸人もいましたが、ベテランの芸人、たとえば「今いくよくるよ」さんとか、「オール阪神巨人」さんとか、大御所の舞台も見ることができました。これも、ミサがなくてさびしいのを辛抱してくださった皆さんのおかげだと思っています。ありがとうございました。

さて、今週の福音朗読箇所は、山上の説教と呼ばれる個所で、26聖人殉教者をたたえる記念ミサでも朗読される大切な箇所です。5章3節から10節までで、幸いな姿を8つ取り上げることから、「真福八端(しんぷくはったん)」とも呼ばれています。この8つの幸いと呼ばれる姿を、まずイエス・キリストの中に見出すことにしましょう。

「心の貧しい人」これは、神に心を豊かにしてもらうことを願う人の姿です。イエスは、「『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』」(ヨハネ4・32)と言われました。ここから、御父が御子イエスを満たしてくださることが伺えます。「悲しむ人々」これはラザロが亡くなって、イエスがラザロのために涙を流したこと(ヨハネ11・35)を思い出すことができます。

「柔和な人」イエスは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」(マタイ11・29)と仰いました。「義に飢え渇く人」イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6・33)と仰いました。

「憐れみ深い人」たくさん例がありますが、今回は「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6・34)を挙げておきましょう。「心の清い人」については、姦通の現場で捕まった人を、イエスが「「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハネ8・11)と言ってゆるしてくださる場面が思い出されます。

「平和を実現する人」イエスは平和をもたらす人でした。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ14・27)と仰っています。「義のために迫害される人」裁判の席に連れて行かれ、兵士の平手打ちを浴びた時、イエスはその兵士に「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」(ヨハネ18・23)と答えました。

こうしてみると、イエスには「真福八端」の教えのすべてが、この地上での生活の中で実現されていました。ですから突き詰めて考えると、イエスが幸いであると教えてくださった生き方は、まずイエスご自身の中にある、ということです。

けれども、真福八端の生き方をイエスの中に見つけ出しただけでは、わたしたちには何ももたらしてくれません。そこで、わたしたちとの結びつきを考えてみましょう。わたしは、それをひとことで言うならば、イエスの生き方を見習うこと。それが、真福八端の生き方だとまとめたいと思います。

エスの生きざまを聖書の中に探せば探すほど、わたしたちはそれが真福八端の生き方を探すことになることが分かるでしょう。この生き方は他の人には特別な生き方に見えるかもしれません。けれども、イエスの生き方の中には全く普通のこととして現れています。

エスの生き方を見習うことと、真福八端の生き方を実践することとは、表裏一体の関係にあると思います。つまり、わたしたちが自分の心を神に満たしてもらいたいと願い求めるなら、それはイエスの生き方を見習うことになる、ということです。真福八端の1つだけでなく、いくつかについて真剣に求めていくなら、わたしたちの生き方はイエスの生き方にさらに近づいて行くのです。

もっと大胆に言いましょう。わたしたちが真福八端の生き方をどれか1つでも実践しているなら、特にその生き方を徹底して貫くなら、この生き方を先頭に立って生きられたイエスが、今ここに、この時代に生きていると、言えるのではないでしょうか。

エスをこの時代に証しすることは何にもまして大切な使徒職活動ですが、真福八端の生き方を貫くことは、今の時代に有効な証しの姿です。

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ちょっとひとやすみ
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▼司祭団マラソンに12年ぶりに出場してきた。準備もなしに、走りに行った。11キロを走る今回の目標は3つ、「途中で決して歩かない」「必ずゴールする」「チャンスがあれば何人か追い抜く」。3つとも、実行できた。けれども、タイムはみじめなもので、1時間7分20秒という惨憺たる結果だった。
▼司祭になって最初の6年間は走りに行っていたので、指示された11キロコースは十分にイメージできた。折り返しのコースの中で、序盤でやって来る小さな峠を越える部分がポイントになる。
▼折り返すのだから、終盤の山場にもなる。ここまで走り続けていなければならない。そうなると、まったく練習していない身分では序盤から勢いよく走るわけにはいかない。そこで折り返すまではじっと我慢して走ることを考えた。
▼作戦はうまくはまり、折り返してからみるみる足が軽くなって、しっかり地面をとらえて走ることができた。この時点でようやく、「練習していれば、前半からもう少しペースを上げることができたのに」と悔やみながらの後半戦となった。それでも、一度も足を止めずに走るために、気を抜かずに走った。
▼前半で1人、走っては歩き、走っては歩きしている後輩をとらえ、追い越した。「抜き去った」とはお世辞にも言えない走りだったが、やはり追い越すと気分はいい。折り返して次のターゲットをと思ったが、折り返してすぐに1人抜いた後は、なかなか標的が見つからず、一人旅で苦労した。
▼終盤、あと1キロというところで、ターゲットを補足。この時点ではゴールまであと少しという気持ちが追い風になり、並ぶ間もなく追い越した。そうしてゴールしたのだが、ほとんどの参加者がお互いの健闘をたたえ合っていたのが、とてもショックだった。「やっと帰って来た」みたいな目で見られていたのだ。これは耐えられない。
▼温泉につかった後に信徒の皆さんの準備してくれた食事会でごちそうになった。成績発表があり、当然わたしは最後の方で名前を呼ばれた。「一言ありますか」と聞かれたので、「1時間を切ることができず、ショックです。来年は、1時間前後の人はわたしのお尻を拝むことになるでしょう。覚悟してください」と、大見栄を切って来た。わたしは必ず実行する。来年は、1キロ5分の計算で、55分のゴールを設定タイムにしたい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===