年間第3主日(マタイ4:12-23)

説教の前に、車の運転のことでお詫びをしておきたいです。1月21日金曜日、朝7時半ころ、後浜串のカーブを下ってきて、上って来るわたしとすれ違った軽トラックの人、ごめんなさい。よそ見をしていて、正面衝突しそうになって、死ぬほど驚いたと思います。申し訳ありません。ついでに言うと、同じ日の夜6時に、鯛ノ浦からの裏道でわたしが運転中ぼんやりしていて、衝突しそうになったツーシーターのスポーツカーの人も、ごめんなさい。

水曜日から木曜日にかけて、熊本の帯山教会にいる神父さまを訪ねに行きました。わたしが初めて赴任した浦上教会の、当時の主任神父さまが、今は帯山教会に派遣されています。今年、司祭叙階50周年、金祝を迎えているので、あちこちでお祝いを受けているでしょうが、この神父さまのもとで助任司祭として働いた後輩たちで、お祝いしてあげようということになり、駆けつけたのでした。

この神父さまは現在の帯山教会に7年、その前には天草の崎津・大江・本渡の3つの教会で7年勤めて来た方です。司祭生活50年のうち14年を、福岡教区にささげています。福岡に行く前は、浦上教会主任、その間司教総代理も務めた神父さまです。ちょっと言えば、そんなに偉い神父さまが、どうして長崎教区で晩年働かずに、福岡教区に送り込まれたのだろうと今になって考えるのです。

現在長崎教区は、他の教区に派遣している司祭が9人、東京と福岡の神学校に合計5人、留学している人が2人と、たくさんの司祭を送っています。今はこんなにたくさん派遣されていますが、その先頭に立って出向いてくださったのは、14年前に派遣されていった、帯山教会の神父さまだったわけです。

この大先輩の神父さまが他の教区に派遣されていったのは、長崎教区からの1つのしるしだったと考えています。それは、もし兄弟である他の教区が司祭不足で本当に困っているとき、長崎教区は協力を惜しみません。必要であれば、どんなにベテランの司祭でも、教区の重責を担った司祭でも、兄弟である教区のために派遣します。そういうしるしだったのではないかと思っています。

実際、この大先輩の司祭が派遣されていってから、わたしから見て先輩司祭も後輩司祭も続々と派遣されていくようになりました。そして、派遣された先の教区で、また小教区で、喜び迎えられて働いています。

さて、福音朗読は、イエスガリラヤで伝道を始める場面が選ばれました。今週の朗読箇所は、ガリラヤでの伝道だけを読む短い形と、四人の漁師を弟子にする場面以降も読む長い形とがありますが、短い形の朗読に絞ってお話したいと思います。

エスは、ガリラヤで伝道を開始しました。ガリラヤがどういう場所かというと、ユダヤの国の中で、外国勢力に占領された北部の土地で、宗教的にも正統ユダヤ教から見れば異教にけがされた不浄の地と思われていました。

ですからしばしばガリラヤは人々からさげすまれていたということになります。そのガリラヤから、イエスの活動は始まります。これは、神の目が、どこに向いているかを物語っています。神の目は、華やかな場所、例えばエルサレムに住む人々ではなく、小さくされ、人々の目が向かない場所、軽蔑され、忘れ去られた場所に住む人々に向けられているということです。

エスは、ガリラヤを最初の伝道の場所に選びました。四人の漁師を弟子にしてから、ガリラヤはエルサレムとは違うから、君たちが宣教しなさいと派遣することも可能だったかもしれません。けれどもイエスは、みずから、ガリラヤに遣わされて行ったのです。小さくされた民にとっての「大きな光」「射し込む光」として現れ、伝道なさったのです。

神の目は、どんなに小さくされた場所も忘れずに見ておられる。むしろ小さくされた場所に、大きな慈しみのまなざしが注がれている。イエスガリラヤ伝道はそのことを教えているわけです。

わたしたちの宣教の働きも、ここにヒントがあるのかもしれません。大きな場所、効率のよい場所ばかりを活動の場にするのではなく、見放され、忘れられ、見捨てられているような場所、小さくされた人々に目を注ぐ。そんな宣教の形を基本として考える。それが、イエスと同じ方向を向いた宣教の形なのだと思います

小さくされた場所、そこに住む人々に目を向けるというのは、とても能率の悪い方法のように思うかもしれません。それでも、イエスが最初にそのような方法を選んだことは、忘れてはいけないと思います。

わたしたちが取り組もうとしている一つ一つのことが、いちばん効果的になるにはどうすればよいかと、社会が考えるような方法を重視しているとしたら、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。

エスはいちばん効果のある方法とか、そのようなことを考えただろうか。神さまが最初に目を向けた場所を見ずに、わたしたちがイエスにもっともよく従っていると考えるなら、考え違いをしているかもしれません。

エスガリラヤから伝道を開始したという事実を、この1年のわたしたちの活動に、取り入れることにしましょう。効率と、効果ばかりを狙っていないか、よく考えて、イエスの望む方法に少しでも近い方法で小教区の活動を進めていくことができるように、ミサの中で願うことにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼最近壁掛け時計の場所を変えた。事務机から真正面に見える壁に、転勤してからすぐに壁掛け時計を設置したのだが、座って眺めても立ち上がって眺めても、ちょうど室内蛍光灯が反射して文字盤が見えない。そこで、場所を90度変えて、事務机正面右に時計を移動。ここは、まったく蛍光灯の反射がなく、くっきり見える。
▼これは都合いいと思い、喜んでいたが、1週間、2週間と過ごしていくうちに、考えられないような不便さが発生した。時計を見ようと、無意識に目をやるのが、いつも事務机正面の場所なのだ。
▼本当に都合のよい場所、便利な場所は、無意識に眺める場所であるはずだ。急いでいるとき、考え事がまとまらないとき、何時だろうと思って時計を眺める。目をやると、そこに時計がない。そこで、「あぁ、そうか。時計は正面から真横に移動したのだった」と考えて時間を確認する。
▼思いだしたときには、真横を見て時間を確認するわけだが、無意識に時計を確認しようとして、どうしても正面の壁を見てしまう。「ここにはもう時計はないの」そう言い聞かせているのに、からだは受け入れてくれない。
▼やはり、真横の時計では、用を足してくれないのだろうか。いやそんなはずはない、と思いながらも、正面の壁に戻そうか、もう1ヶ月近く思案している。1ヶ月も迷っているのなら、迷わず正面に戻した方がよいのでは?

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===