王であるキリスト(ルカ23:35-43)

いよいよ、教会暦の最後の日曜日がやってきました。来週からは新しい一年の始まり、待降節です。今週の「王であるキリスト」の祭日を通して、この一年を振り返ることにいたしましょう。

今週の福音朗読は、人々が口々にイエスを侮辱している様子が目立っています。兵士は、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(23・37)と言っています。そこで、王に必要な資質について、考えてみたいと思います。

1つの点に注目してみましょう。十字架にかけられているイエスを、3通りの人物が侮辱しています。議員たちと、兵士たちと、十字架にかけられていた犯罪人の一人です。彼らに共通している要求があります。それは、「自分を救ってみろ」ということです。「神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」(23・35)

これは興味深い点だと思います。救い主に対して、自分を救えと言っているのです。彼らが、イエスを全く理解しなかったことを、よく表しています。救い主は、自分を救うためにおられるのではなくて、わたしたちを救うためにおられるのです。それなのに、イエスを侮辱する人々は、自分を救ってみろ、と言ったのです。

そこで王に必要な資質ですが、王は、自分の民を罪から救う者でなければなりません。他人を救うどころか、自分すら救えない人が、王であるはずがないと、人々は考えていました。本当に、十字架上のイエスは、人々を救えないのでしょうか。

エスを侮辱する人々に関して、もう1つの興味深い点があります。イエスを侮辱しているそれぞれの登場人物は、イエスとの距離が少しずつ違っています。議員たちは、イエスから遠くに立っている人々でした。イエスのことを全く興味を失ってしまった人々と言ってもよいかもしれません。

兵士たちは、イエスのそばにいます。「イエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った」(23・36-37)とありますから、近づいて、イエスをより詳しく観察できる立場にありました。彼らはイエスに興味がありますが、心を開いてイエスの言葉に耳を傾けるつもりはありません。

十字架にかけられていた犯罪人の一人は、同じ刑罰を受け、さらに深くイエスを観察できる人々でした。そして、自分たちと同じ極限の刑罰を受けるイエスを、なぜ逃れようとしないのか、不思議に思っています。

ここで、イエスとの距離を取り上げたのは、イエスが、目の前にいる人に対してだけ王であるのではなく、遠くにいる人にも、民を罪から救う王であることを考えるためです。そして実際に、それぞれの距離にある人々が、救われていくのです。

十字架にかけられていたのは、イエスをののしった人だけではありませんでした。もう一方にかけられていた犯罪人は、イエスが自分たち犯罪人を救うことができると信じました。

当時の一番重い刑罰を受けていたのですから、最低の人間だったことになります。その、最低の人間と同じ場所にとどまっているイエスを、ほかの人にはできない力あるお方だと理解したのでした。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23・42)「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23・43)このやり取りは、イエスの最後の言葉の中でも、特に心を打たれます。

兵士と同じ距離にいた人の中に、イエスを神の子・救い主と認めた人がいました。百人隊長です。「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美しました(23・47)。この百人隊長は、百人の兵士を束ねる隊長ですから、人の心をよく理解できる人でした。この百人隊長の目には、イエスが人々を救うために最後まで自分の責任を果たしていることが見えていたのです。

では、イエスから遠く離れている人々はどうでしょうか。「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。」(23・48)とあります。心を打たれて帰って行った群衆がいたのです。イエスは、どん底にある犯罪人も、興味があるけれどもイエスに忠実に従えない弱い人間も、全く興味を示さなくなった冷淡な人をも、救ってくださる王なのです。

十字架にかけられているイエスを見て、救いを得られない人々と、救いに至った人々がいました。出来事は同じなのに、結果に違いが現れたのは、イエスの姿をどう受け止めようとしているか、わたしたちの態度にかかっているのではないでしょうか。

人間的にはみじめな姿になっているイエスを見て、最低の人間にまで手を伸ばそうとしていると見るのか、何もできないみじめな姿だと見るのか、わたしたちの受け止め方にかかっているということです。

では、十字架にかけられているイエスを見て、今のわたしたちはどう受け止めるのでしょうか。あんなに弱く貧しい姿にまで自分を置いてくださったのだから、わたしが罪を犯し、深い淵に落ちたとしても、わたしのそばに来て救ってくださる。わたしの王となってくださる。そのような思いで十字架上のイエスを見つめることができる人は幸いです。

エスを信じない人々は、「自分を救ってみろ」とイエスを侮辱しました。イエスが十字架から降りないことを、人々を罪から救う王のしるしと読み取る信仰が今必要です。本当はこの1年、罪によって自分が落ち込んだ時、「わたしを思い出してください」「あなたはわたしと一緒にいる」と、イエスは絶えず助け起こしてくれているのです。

この1年を振り返り、あのときは助け起こされたのだなぁと思い出せる場面を探してみましょう。きっと何かがあるはずです。その助け起こされた主を、来週からは新たな気持ちで待ち望むことになります。十字架に架けられたイエスに、あらためてすべての人の救い主・王の姿を確かめるための恵みを、このミサの中で願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼堅信を受けた中学生には、まず聖書の朗読を子供たちが持っているMP3プレーヤーでこれから生涯にわたって聞くことができるように、材料をプレゼントしてあげた。結構高くついた。それでも、これから日常生活で音楽のように聞いてくれるなら、今の時代の方法で、聖書に親しむことができるかもしれない。
▼よく人の話を聞かなければ、と思ったことがあった。焼き肉の話から始まるのだが、「中学生はとてつもなく食べますよ」と言うので、そんなものかなぁと思いつつたくさんの食材を用意した。ところが、勢い良く食べるのは男子だけで、女子はそれほどでもなかった。対象となる中学2年生8人と、わたしの合計9人で食べたのだが、思いのほか量は進まなかった。
▼焼肉パーティーを、かなり落ち込んで帰って来た。なぜ、食が進まなかったのだろう。こうじ神父だけが混じっての食事に、遠慮があったのだろうか。まぁそういうこともあるかもしれないが、お腹いっぱい食べてもらおうという当初の計画は、挫折してしまった。
精肉店に行って、とんでもなく食べる連中だから、と言ったのだが、しばらくはその店にも行けないかもしれない。どの顔で、会えばよいのだろうか。「いつもはもっと食べるんですけど」と本人が言った。そういう説明はよいから、目の前で食べてほしいのである。
▼まぁ、結果からすると、話は半分くらいに聞いておくべきだ、ということか。おにぎりはたくさん食べたし、飲み物は足りなくなったのだから、食べる気はあるということだ。あとは、普通に考えて、食材の調達はした方がよい、というのが今回の反省となった。
▼この苦い経験は、ほかのことにも通じるかもしれない。話半分、と言うのか、ほどほどに、と言うのか。いずれにしても、人の話にあまり左右されず、自分の勘と経験に照らして、本当に鵜呑みにしてよいのか、吟味しなければならないと思った。来年につなげよう。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===