年間第32主日(ルカ20:27-38)

年間第32主日が回ってきました。年間の主日も30週あたりになると、「あー、そろそろ今年の教会の暦も終わりに近付いているなぁ」と意識します。皆さんも十分ご承知とは思いますが、教会の暦・典礼暦は、年間第34週に当たる「王であるキリスト」で終わり、待降節、つまりイエスの誕生を待つ季節から新しい1年が始まります。

そうなると、典礼暦を締めくくるこの時期、わたしたちはどんな思いで過ごすべきか、まず知っておきたいのです。皆さん1人1人が理解してほしいのです。教会暦が1年の終わりに意識させようとすること、それは、「終末」についてです。終末と言っても今週、来週の終わりではなくて、この世界が終わりには完成する、ということについて、意識させようとします。

そこで、この世界の終りに何が考えられているかですが、わたしたちが唱える使徒信条の中にはっきり出てきます。「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。」人間は復活して、永遠のいのちに招かれるのです。この復活信仰について、今週の福音朗読は考えさせます。

今週の福音朗読で登場するサドカイ派は、ユダヤ人の中でも復活を否定しているグループでした。彼らは、復活という考え方を持っていないモーセ五書だけを重んじていました。そして、モーセ五書の中の申命記で取り上げられている規定を持ち出して、もし復活があるなら、大混乱になると主張したのです。

申命記25章5-6節には、次のような規定がありました。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」そして、この規定を盾にとって、今週のような論争を挑んできたのです。

エスサドカイ派の議論に、2つの点で答えています。まず、当時のユダヤ人が一般的に持っていた復活に対する考え方をイエスは訂正しました。当時、特にファリサイ派の人の間で復活後の生活は、この世の生活の延長と考えられていました。ですから復活後も結婚し、子供を産むと考えていたわけです。

エスはその点をまず訂正します。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。」(20・34-35)子孫を残すのは、死を乗り越えようとするためです。復活した人はもはや死ぬことはないのですから、結婚して子孫を残す必要はありません。皆、兄弟姉妹のようになると思ってよいでしょう。

次に、サドカイ派が大切にしているモーセ五書から、復活はあると説明します。サドカイ派の人はモーセ五書に復活信仰は書かれていないと考えていましたが、アブラハム、イサク、ヤコブがいつまでも死に渡されたままでいるだろうか。むしろ神は、今もアブラハム、イサク、ヤコブを生かしてくださっていると考えるべきではないか。イエスはこのようにサドカイ派の人を諭しました。

復活は、この世の終わりを考えるのにとても意味ある内容だと思います。人生の終わりや、この世界の終りが、そのまま消えてなくなってしまうものだとしたら、わたしたちには人生を全うするための希望がなくなることになります。消えてなくなる人生のために、わたしたちがどれだけ努力しても、空しいのではないでしょうか。復活の希望があるから、わたしたちは人生の終わりとこの世界の終わりを、希望をもって迎えられるのです。

今、1人の神父さまを皆さんに紹介して説教を終わりたいと思います。「よきおとずれ」の11月号1面で、人事異動が発表されました。その中で、1人の神父さまが、病気療養に入ることが発表されました。教会の主任司祭で、1つの地区の地区長も兼務していた神父さまです。

神父さまの病気は、肺ガンです。治療が困難な場所に症状が出ているということで、大掛かりな治療は行わないということでした。そうなると、神父さま本人の体力とか、気力とかに大きくかかって来ると思います。その代わりに、188殉教者の取り次ぎを願って祈ってほしいとお願いしています。

今、188殉教者は福者の位にありますが、取り次ぎによって奇跡が起こるなら、聖人の位に上げられる可能性があります。神父さまは、188殉教者の取り次ぎを信じ、奇跡を願っています。わたしも、神さまが必要とされる奇跡であれば、奇跡は起こると信じています。ぜひ、神父さまのためにお祈りをお願いいたします。

神父さまがどんな思いで1日1日を過ごしているのか、想像もつきませんが、ご自分の人生を神の望むように全うし、完成させたいと願って、今を大切に生きているのではないでしょうか。人生を全うしたいと思う中で、復活と、永遠のいのちを信じて、希望を持って生きていると思います。

サドカイ派の人は、復活を否定しました。わたしたちは復活を信じ、人生が完成し、世界も完成して終わることを信じましょう。今生きている人の中には、残り時間はこれくらいしかないと、宣告を受けている人もいます。それでも、復活への希望を信じて生きるなら、残された時間は大きな意味があります。

「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6・39)このように仰ったイエスが、大きな困難の中にある人も含めて、復活に希望を置く証し人としてこの人生を生き抜くことができるように、恵みを与えてくださる。そう信じて、このミサの中で祈りをささげたいと思います。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼11月3日、文化の日。皆さんはどのような過ごし方をしただろうか。わたしはつい自分の趣味を優先させて、海に出て釣りを楽しんだ。しかし、寄せられてきたメールを読むと、11月3日は趣味の日だけではなかったことを思い出した。
▼まず、日本カトリック神学院・福岡キャンパスでは、毎年この日を「召命の日」として九州全域から子供たちを招いて召命について働きかける日になっている。わたしも学生時代は、この日にやって来たM教会の担当に当たり、1日その教会の子供たちを案内した、とても楽しい思い出がある。助祭になった年には、その日の召命祈願ミサで説教をしたが、当時の福岡教区司教にコテンパンにダメだしされたこともあった。
▼関東の友達からは、美しい山の景色が届いた。佐世保からやって来た写真家と山登りをしたのだろうか。気分だけは高い場所で景色を眺めたつもりになった。いただいた写真は、ほかの人にも喜んでもらおうというやさしさが伝わって来る写真だった。
▼司祭館周辺には、食事のお世話をしてくださっているシスターが鉢植えやつる草の植物や、季節ごとに楽しみを用意してくれている。その中で、ニョキニョキと伸びて花を咲かせた植物が目にとまり、「これは何?」と尋ねたら、「皇帝ダリアです」ということだった。
▼調べてみると、「木立ダリア」とも言う植物だった。地上から、グイグイ伸びて、二階のベランダで花が見えている。どうしてここに花が見えるのかとベランダに行ってみると、5メートル、あるいは7メートルくらいの高さに伸びているではないか。
▼このベランダ、夏の間は毎日のように行き来したのだが、伸び続けているダリアには全く気付かなかった。「点滴石をうがつ」と言ったりするが、見えない変化も長い時間積み重ねれば大きな結果になるのだろう。わたしの人生にも、何かそのような足跡を残せたらと思う。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===