年間第22主日(ルカ14:1,7-14)

今日の福音では、「へりくだる者は高められる」というのがポイントだと思います。まず身近なところで、「へりくだる」というのがうまくいった例と、失敗した例を挙げてみたいと思います。

まずは、「へりくだる」の成功例です。この夏の高校野球特別なドラマが待っていました。沖縄県代表の興南高校が、春夏連覇を果たしました。NHKの夜9時のニュースで、キャスターが我喜屋優監督にインタビューしたときの様子が流れていましたが、春に優勝した生徒たちをもう一度リセットして出発することがとても大変だったと語っていました。

そうだろうなぁと思います。春に優勝したチームに、初心に立ち返って練習しようと呼びかけても、「自分たちは春に優勝したんだ」という驕りとか心の油断とかがどうしても頭をもたげてくると思うのです。全部取り払ってやりなおそうとしたって、それは簡単ではないと思います。

「春は春だから」と頭では思っていても、「優勝したことがあるんだぞぉ」という気持ちを決して出さないというのは並大抵のことではなかったはずです。その点を監督の指導でうまく乗り越えて、春の優勝チームなのに、まったくの振り出しに戻って選手を鍛え上げることができた。その結果が、今回の優勝に結びついたのだと思いました。

次に、「へりくだる」の失敗例です。わたしは、前の前に赴任していた教会で恥ずかしい思いをしたことがあります。この教会は、わたしが初めて主任司祭となって赴任した教会でした。それから新しい辞令をもらい、前任地に転勤していったのですが、転勤して間もなく、前の前の教会の御婦人が亡くなって葬式のミサに出席することになりました。

その方は、長崎教区の神父さまのお母さんでもありました。ですから、葬儀ミサにはたくさんの神父さまが出席していて、わたしもその中の1人としてミサをささげていたのです。

亡くなった方や、司式をしておられた息子さんの神父さまには失礼な話ですが、「あー、ついこの前までここにいたんだなぁ。お、あの人も来てるなぁ。」そんなことを思ってずいぶん気を散らしながら、同席の神父さまと一緒にいたわけです。

ミサの途中、ちょっとした問題が発生しました。典礼の係の人に指示を出せば、すぐに対処できることでしたが、いっこうにその問題に対処する様子が見えませんでした。わたしは思わず、典礼係の人の名前を呼んだのです。「○○さん。ちょっと、対処してあげてよ。」

つい、声を出して言ってしまったのですが、言ってから気付きました。「あっ、わたしは数カ月前に、もうここの主任神父ではなくなっていたんだ。わたしが口を挟んではいけない。」けれども、もう後の祭りで、静まり返った聖堂に、前任者に過ぎないわたしの声が響いてしまったのでした。

とっさのことでしたが、今でもその時のことは思い出すと申し訳ないなぁと思います。わたしの後任でやって来た神父さまも、その教会で初めて主任司祭になったのでした。その神父さまを差し置いて、係りの人に指図したのですから、後任の神父さまに面目が立ちません。本当に恥ずかしいことをしたなぁと思います。

今週の福音朗読で、イエスは神の前にへりくだることの大切さを教えます。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(14・11)たとえ話の中では、婚宴に招待された時、末席に座れば、人々の前で面目を施すことになるではないか。だから、神の前にへりくだることは、神に高めてもらう何よりもよい方法だと促します。

しかも、見逃してはいけない小さな付け加えがあります。「だれでも」です。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」のです。わたしは、前の前の教会の主任司祭でした。確かに数カ月前までは、そうでした。それでも、「ほら典礼係、何ばしよっとや」というような態度をとってはいけないのです。

きっと、数カ月前まで主任司祭だったのですから、わたしが指示を飛ばしたほうがすぐに解決するでしょう。けれどもそれは、踏み越えてはいけない部分だと思うのです。「だれでも」へりくだる必要があるのです。あの場面、どうしても典礼係に指示を出そうと思うなら、今の主任司祭にそっと伝えて、それから典礼係に動いてもらうべきだったと思います。

「へりくだる」ことの大切さがわかると、イエスのもう1つのたとえ、「お返しのできない人を、招待してあげなさい」も理解できるようになります。お返しをしていただくことは、報われるということです。報いを手に受けた人は、それ以上、報いを手にすることはできません。すでに、報いを手にしているからです。

いっぽうで、お返しのできない人を招いたとき、わたしたちの手は報いを受けないのですから、いつまでも手は空っぽのままです。それでいいと、イエスさまはおっしゃいます。その空の手に、イエスさまが最後の報いを用意してくださるからです。手が空いてる、空の手だからこそ、わたしたちは報いを手にできるのです。

こんな聖歌を思い出しました。「空の手で、はだしのままで、ついて行きたいキリストに。ついて行きたいキリストに。」わたしたちは、手に報いを得ることばかりを目的にして奉仕すべきではありません。手に報いが得られない働きこそ、あなたにとって願ってもないチャンスです。誰も報いてくれないその働きに、イエスが報いを用意してくださいます。

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ちょっとひとやすみ
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▼ボートがようやく手に入った。ボートを所有していると聞けば、贅沢だと思われるかもしれない。まぁ、その辺はお任せしたい。慣らし運転にすぐに行ってみた。この日、前日から来ていた来客も、慣らし運転に付き合うように求めたので、同伴してくれた。8月21日の土曜日朝だったと思う。この日は問題なく出航できたのだが、その後は何回もトラブルに見舞われた。
▼慣らし運転2回目。この日は別の来客(五島住まい)に「ボートにきっと乗りたいでしょ。でしょ?」と無理やり誘って乗せた。走っているときは問題なかったのだが、帰ってきて港内に戻った瞬間に、エンジンが停止して船が流された。港内だったのですぐに救助してもらったが、港外に出ていたらどうなっていただろうかとぞっとする。
▼すぐに○○モータースに連絡。翌日点検をするも、「持ち帰らないと修理できないような故障のようです」ということで、慣らし運転はお預け。それでもすぐに原因が見つかり、翌日にはエンジンが無事に戻ってきた。戻ったところに2回目に乗った来客(五島住まい)がもう1度訪ねてきたので、今度は釣りをしてみないかと誘い、ファミリーフィッシング
▼さすがにボートからの釣りには慣れていないのか、子供たちは大苦戦。わたしと保護者は五島生まれ。慣れたもので次々にそこそこの大きさと種類の魚を釣り上げ、経験の差を見せつけていた。風が少し強まり、島影に回ろうということになり、船を移動させる。この時点で、内心は「あー、もう魚釣りは終わり。」という感覚だったのだが、結果は意外なことに。
▼風の当たらない静かな場所に着き、「釣竿を入れるだけのつもり」で開始してしばらくすると、たいした魚も釣っていなかった子供が、突然大きく竿を曲げた。つい、本気になってしまい、「竿を立てて!」「糸を巻き続けて!竿を降ろしちゃダメ!」と真剣に指導してしまった。おかげで、30センチはあろうかというイサキを、子供が釣り上げた。
▼船頭としては、客に魚を釣ってもらったのだからこれに越したことはないのだが、内心は複雑である。同じ場所にいるのだから、同じイサキが釣りたい。しかし、欲の皮が突っ張っている大人には、なぜかイサキはかからなかった。天使のような子供だけが、幸運をつかんだ3回目の慣らし運転だった。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===