年間第16主日(ルカ10:38-42)

主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(10・41-42)今週朗読されているマルタとマリアの姉妹の物語の中で、イエスが出来事に意味を与えるために語った結びの言葉です。

わたしはこれまで、どうしてもマルタとマリアを比較して、マルタのかいがいしい奉仕と、マリアの静かにイエスの言葉に耳を傾ける姿と、どちらが優れているでしょうかという視点に縛られてしまって、この朗読箇所を考えてしまっていました。もちろんそのこともあるのでしょうが、違った視点が与えられないと、この問題は永遠に答えが出ないのではないかと思います。

わたしは今年、少し違った視点を皆さんに示すことができればいいなぁと思っています。それは、「マルタとマリアの行動が、何を生み出すか」に注目しようというものです。マルタのような行動を取ると、マルタからは何が生み出されるのか。マリアのような行動を取ると、マリアからは何が生み出されるのか。そこに注目することが、イエスの結びの言葉を理解する鍵ではないかと思いました。

「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」マリアが良い方を選んだと、イエスははっきり仰いました。出来事だけを追うなら、マリアがイエスの足元に座り、じっと話を聞いたことを、「良い方を選んだ」と取ることもできます。ただし、それでは、本当に限られた態度だけをイエスが「良い方」として指摘されたことになります。本当にそうなのでしょうか。

わたしは、もう少しイエスの言葉には広がりがあるのではないかと思っています。つまり、「良い方を選んだ」とは、その人がとった態度が生み出すものが、良い実りであるなら、その人の選んだ態度は、イエスの望みにかなった「良い方」なのではないか、そう思っているのです。イエスの足元に座って話を聞くことだけを言っているのではなく、「良い実りを生み出すあらゆる態度」が、イエスの言われる「良い方を選んだ」ということになるのではないでしょうか。

マルタの態度にも目を向けてみましょう。マルタがイエスと弟子たちを喜ばせようとしたことに疑いの余地はありません。ただし、マルタの取った態度が何を生み出すか、ということを考えると、もしかしたら、十分とは言えないかも知れません。マルタの行動が生み出す実りと、マリアの行動が生み出す実りには、明らかに違いがあるように思うのです。

マルタの行動が生み出すもの、それは満足感や達成感、誇らしさや名誉でしょう。マルタの行動の実りは、マルタにのみ意味のあるもので、他者に分け与えるようなものはないのかもしれません。それに対しマリアの行動が生み出すものは、イエスへの深い信頼、イエスに導かれることの深い喜び、イエスと共にいる深い安らぎなどです。マリアの中で生み出されたものは、人に分け与えることもでき、周りの人を豊かにします。

この、「良い実りを生み出す態度」が、イエスの仰る「良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」につながるのであれば、わたしたちの生活にマルタとマリアの物語は無関係ではなくなります。わたしの取る態度が、良い実りを生み出し、周りの人をも豊かにするのであれば、それは、「良い方を選んだ」とイエスに認められるのです。反対に、自分だけの実りしか生み出さないような態度を取る人は、イエスに認めてもらえないことになります。

わたしたちの生活はどうでしょうか。わたしが選んだ決断、わたしが選んだ時間の使い方、そうしたものが、「良い実りをもたらす態度」につながっているでしょうか。もしそうであれば、わたしたちはイエスから、「あなたは良い方を選んだ。それをなくさないようにしなさい」と声をかけてもらえるのではないでしょうか。

もし、わたしの選んだ決断が、わたしにとっては喜びであっても、人に分け与えることもできず、自分だけにとどまるのであれば、それは本当に「良い方を選んだ」と言えるかどうか、考えてみる必要があると思います。あなたの決断、時間の使い方が、イエスへの信頼、イエスから来る喜び、イエスと共にいる安らぎにつながらないのなら、考え直すことも必要かもしれません。

「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」わたしたち一人一人が、イエスにこのように言われる選択を続けて生きることができるよう、恵みと照らしをこのミサの中で願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼えこひいきするわけではないが、赴任した小教区に愛着がわくと、その小教区が持っている一番良い部分が見えてくる。もちろん、前任者の尽力によってそうなった部分もあるだろうが、客観的に見て、ここは感心するなぁという点を見つけることがある。
▼ぐうたらなわたしへの発奮材料となった、小さな出来事があった。6月30日に受けた生活習慣病健診で、運動不足と過食が原因と見られる症状を先生に突きつけられ、6ヵ月後に再度健診をして、数値が下がっていなければ生涯にわたって薬から逃れられませんと脅かされて毎日有酸素運動をしている。「半年後に薬漬けになって欲しくない」と、わたしをそのまま受け入れてくれた小学生の話。
▼ちっちゃな子が3人4人で、よく台所側から司祭館をのぞき、賄いシスターとわたしに近づこうとしてやって来る。その中の年長の子が、わたしにこう言った。「神父さま、夏休みになったらぼくたちと毎日泳ぎましょう。」まだ、わたしも二言三言しか会話したことないのに、この子供たちは臆することなく、わたしに挑戦を仕掛けてきた。
▼人を恐れずぶつかっていくこの子供たちの態度は、浜串の子供たち、ひいては上五島の子供たちの優れた点ではないだろうか。転勤してしばらくは、とにかく前任者と比べられてしまうものだが、この子は前任者と比較してではなく、いきなりわたしにまっすぐに体当たりして来た。「前の神父さまはこうだったよ」そういってくる子も確かにいるが、今回は前置きもなく、勝負を仕掛けてきたのである。
▼望むところだ、と言いたいが、毎日はちとつらいかもしれない。毎日出ていては、わたしの頭の皿は、真水がなくなって干からびてしまうかもしれない。できる範囲で、このやんちゃで曇りのない子供たちの相手をしてあげたい。子供のいないオジサン神父への、思いがけない果たし状。今年の夏は相当に面白くなりそうである。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===