年間第15主日(ルカ10:25-37)

2つの用事で、長崎に出ました。1つは、8月1日に浜串小教区の子供たちを佐世保地区主催のドッヂボール大会に連れて行こうと計画しているのですが、1日が日曜日なので、ピンチヒッターに直接交渉に行くためでした。もう1つは、選挙のことです。まだ転勤して3か月経っていないので投票用紙が来ていません。伊王島に期日投票しに行くことを思い立ちました。

8月1日(日)のピンチヒッターをお願いしたのは長崎コレジオの神父さまです。幸いに、引き受けてくださったので、長崎まで来た甲斐があったのですが、生徒たちを預かる神父さま方のご苦労を聞くにつれ、本当に大変な仕事だと感じました。

さて福音は、「善いサマリア人」のたとえです。わたしには次のイエスの言葉が響いてきます。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(10・26)律法に書かれていることは、律法の専門家であればよく知っているに違いない。だが、それをどう読んでいるのか知りたいと、イエスは求めています。

たとえ話に、3人が半殺しの目に遭っている人の前を通ります。「隣人を自分のように愛しなさい」との勧めは知っていますが、それを実際の場面で、「どう読んでいるか」が問われています。祭司とレビ人は道の向こう側を通っていきました。教えについて、頭の上での理解でしかなかったのです。

ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その人を見て憐れに思い、近寄ったのです。このサマリア人は、生活の中で掟を実践すべきだと、行動に出たのです。サマリア人は、「教えは実行して初めて意味がある」と理解していたのです。

先の長崎コレジオの話をもう一度思い出して欲しいのですが、長崎教区の司祭で、今の時代に司祭が減少していることを知らない司祭は誰もいないと思います。それに伴って神学生の養成がどれほど緊急の課題か、知らない人はいないはずなのです。

それなのに、たとえばわたしが大司教さまから「君、神学校に行ってくれないか」と言われたら、「とんでもない」と、言ってしまうのです。どれだけ神学生の教育が大事かを痛いほど知っているのに、現実には道の向こう側を通ろうとするのです。

けれども、今実際に神学生の養成にたずさわっている神父さま方は、神学生を見て、心を揺さぶられ、近寄ってお世話をしている人々なのです。ですから、わたしたちの何倍も、神学校の神父さま方は善いサマリア人なのだと思っています。

考えても見てください。神学校にはギャルもいませんし、黄色い声をあげる女性もいません。ミサの依頼が神学生からあるわけでもないし、小教区の司祭とは大違いなのです。そういう身ぐるみはがされた状態の中に、逢えて近寄ってくださる神父さま方は、どれだけ尊いことでしょう。

そこで、わたしたち自身も、イエスのたとえ話と、土曜日に持ち帰ったばかりの神学生養成にたずさわる神父さま方の話を、わたしたち自身に当てはめて欲しいのです。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」ということです。

律法の専門家に、「律法には何と書いてあるか」と問うのは、毎日律法と向き合っている人に尋ねているのですから、日常生活そのものだとも言えます。ですから、イエスがわたしたちに問うているのは、「あなたは、目の前の生活をどう見て、どう理解しているのか」と問うているのではないでしょうか。

これに対し、たとえに登場したサマリア人は、今必要なお世話を施した上に、完全にケガが治るまでのこれからの時間にまで配慮してくれています。言わば通りすがりの人なのに、自分のことのように心を痛めることができました。目の前の現実を見て、どう読み取ったかの違いがはっきり現れています。

わたしたちは、現実の生活があります。この生活の中に、神に対して人に対して、守るべきことがあるわけです。そして、こうした守るべきこと、実行すべきことが見えた時に、あなたはそれをどう形にしているのかと、問われているのではないでしょうか。

神学生の養成、司祭の召命の増加。これらがどれほど緊急の課題であるかを理解していながら、神学校という直接の場所に対して道の向こう側を通るようではいけません。どんな無理難題でも、わたしにできることがあれば、神学生のために手を差し伸べる。それが今のわたしの課題です。

これはわたし自身の反省ですが、お一人お一人、実際の生活の中で、「それをどう見て、どう理解しているのか」と自問して欲しいと思います。生活のただ中で、わたしたちが何かを見た時に、心を動かされて行動に出る。そういう信仰者となることができるよう、今週一週間、恵みを願うことにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼6月22日を語る、最終回。地域によって葬儀の流れもさまざま。ここ上五島では、葬儀・告別を終えて火葬し、その日のうちに納骨して、晩には親しい人を集めて食事をふるまってもてなすしきたりになっている。火曜日から水曜日にかけて、伊王島の人が訪ねてきていたので、本来ならこの日の夕食は伊王島の人たちとなのだが、まずは遺族の招待した席に出てから、伊王島の皆さんの食事会に出ることにした。
▼遺族が設けてくれた食事の席は、おいしい魚がずらりと並んだ魅力的なものだった。話はすぐに「歌う後継者」の話に移り、そこでにぎやかな会話になり、さらに「故人が楽しんできた釣り船をどう処理するか」にも関心が向いた。わたしは身を乗り出し、「その話は興味あるなぁ」と、ぜひ自分に、その船を譲ってもらいたい旨を伝えてみた。
▼すると、船は世話してくれている○○モータースに、譲渡しようという話でほぼ固まっているという。「今、○○モータースって言いました?そことはたまたま、他人じゃないよ。その業者だったら話が早い。明日にでも相談に行っていいですか?」亡くなったご主人の船が、主任司祭によって活かされるわけだから、二つ返事で話はまとまった。
▼これは面白くなりそうだ。どうにかしてボートを手に入れたいなぁと思っていたところだったので、これこそ、「渡りに船」である。故人が眠る棺を囲んで、わたしはこんなににぎやかな話をしてしまい、故人に「まいったなぁ」と思われているだろうか。いや、わたしはそうは思わない。きっと、喜んでこの場を眺めてくれていると思っている。
▼後日談だが、○○モータースとも話がスムーズに進み、実際の船も下見をしてきた。ちょっと、細部ではイメージと違っている部分もあるが、楽しみが増えたことには変わりない。また、地域の人には心配かけると思うが、これで思う存分、上五島ライフが楽しめそうである。8月12日に、船の検査がパスすれば使えるようになる。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===