年間第27主日(マルコ10:2-16)

わたしは浦上教会時代に、悔やんでも悔やみきれない失敗をしたことが2つ3つありまして、そのことは今もずっと思い出しますし、わたしが記憶を失うまで、決して忘れないだろうと思います。

今日の福音朗読を考えるきっかけとして、そのうちの1つを、話せる範囲で、告白したいと思います。ある親子が、司祭館に相談に来ていました。たまたまわたしが玄関に出て応対しました。

話を聞いて、それは教会法をわたしが理解している範囲で考えると、ゆるされないこと、許可できないことですと伝えました。その方は、表情をこわばらせました。その場面に、たまたま主任神父さまが出くわしました。「どうしたのかね」と尋ねられましたので、これこれの状態にあって、お願いに来ていることをかなえてもらえるだろうかと言っていますとわたしは伝えました。

すると、主任神父さまが直接、親子の相談に乗ってくださり、「うん、話は今、助任神父から聞いて分かった。その上で今から聞くことに答えてくれんね。こういう予定はあるね、予定はないね」「ありません」「じゃあ問題ない。希望通りにできるよ。」

「じゃあ問題ないよ。」その言葉を聞いたとき、親子は一度に悩みから解放されたのでしょう、こらえていたものがこみ上げて、涙を流しました。玄関に立ったまま、ハラハラ涙を流したのです。

今思い出しますと、主任神父さまのような経験も場面に応じた適切な判断もできず、教会法という法律だけを物差しにしてその人に判決を下していたわけです。あのときから15年以上が経過していますが、同じような場面が何度か巡ってきました。

そして今は、わたしも当時の主任神父さまのように、その人の置かれている事情を総合して、可能な方法を伝えることができるようになりました。できない理由を並べるのではなく、あなたがこうしてくれたら、できるようになりますと言えるようになったのです。

当時のことを思い出すと、今でも申し訳ない気持ちで一杯です。相談に来ているだけでも辛い思いだったでしょうに、わたしはその人のこわばった表情を和らげることすらできませんでした。

もし、あの場面に主任神父さまが出くわしていなかったら、わたしは主任神父さまに相談することなく、おいでになった人をそのまま帰していたかも知れません。「うんうん、大丈夫。心配要らないよ。」と声を掛けられて涙を流していた場面は、今でもはっきり焼き付いています。わたしの理解不足で、目の前にいる親子を神さまから引き離してしまうところでした。

わたしの過去の告白は、今週の福音朗読の一節と結びついています。「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(10・9)実際の朗読箇所では、結婚についてファリサイ派の人々に答えたみことばです。神のご意志として用意された結婚の恵みを、人間が壊してはいけないということです。

わたしは、このイエスのみことばを、もっといろんな状況に当てはめて考えてみました。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」つまり、神がお望みになっていることを、人間が壊してはいけないということです。

神がお望みになっていることは、今週の福音朗読にあるような結婚生活のことだけではありません。人と人とのあらゆる関わりの中に、神がお望みになっていることがあるわけです。それを、神が望んでいることなんて、そんなの意味がないとか、そんなの古くさいとか言って、人間が壊してはいけないと言いたいのです。

わたしは全体を見渡すヒントとして、十戒を思い描いたらよいのではないかと思います。あの中に示されている掟は、どれも神が人と結んでくださった掟です。神が、人のことを思って結び合わせてくださったものです。

それを、人は離してはいけない、つまり、掟なんて気にしていたら何もできないぞとか、そんなの今の時代に意味がないとか言って、神と結び合わせるための大切な掟を、人から引き離してしまう。その絆を壊してしまう。生活の全般にわたって、人を神から引き離すようなことはしてはいけないと、要求しているのだと思うのです。

そう考えてくると、わたしたちは日頃、いろんな場面で、神が結び合わせてくださったものを、人間の都合で引き離しているのだなぁと気づくことが出てきます。教区が決定したことなのでどうこう言える筋合いではないのですが、司祭の叙階式、ここ数年で毎年のようにコロコロ変わっています。

わたしは信徒発見の日に司祭に叙階されましたが、わたしよりも上の先輩たちは、多くが聖ヨセフの祝日に叙階されているはずです。わたしも小さい頃、叙階式は3月19日にあるものだと暗記して理解していました。

それが、やれ日曜日にした方が集まりやすいだの、やれ日本の祝日に合わせたほうが子どもたちも叙階式をその目で見ることができるだの、いろんな理由が付いてここ数年は決定したことがくるくる変わっているのです。

もう1つ言わせてもらうと、26聖人の殉教記念ミサですが、最近日曜日に変更になりました。叙階式は、その年によって実施する日がくるくる変わってもその年に2度行うことはありませんが、26聖人のミサを日曜日にしても、結局は2月5日にもう一度祝うわけです。西坂の26聖人記念館で実際にそのようなことが起こっています。

この状況は、わたしの中で「教区が決めたことだから仕方がない」という理解で無理矢理受け止めていますが、26聖人を、神が2月5日に結び合わせてくださったのですから、それを人が引き離してしまうのは、どういうものかなぁという思いがいまだに拭えません。

「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」わたしはこのイエスの思いが、よくよく見渡すといろんな場面で破られているのではないか、守られていないのではないかと心配しています。

もし人が、いろんな都合をつけて、神が結び合わせてくださったものを引き離すようなことをしているとしたら、率直にそれを認めて、修正していきたいと思います。あるべき姿を最大限取り戻すことで、カトリック教会はもう一度日本の社会に対して影響力を持つ神の民になれるのではないでしょうか。

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ちょっとひとやすみ
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▼今、自分の中でちょっとしたブームになっているのが、「写真コンテスト」で、納得できる写真があれば、応募しようかな、というやる気満々の状態でいる。興味のある人は、「長崎チャーチトラスト」というNPO法人のHPを覗いてみてほしい。
▼関連して、長崎市内の書店では、写真コンテストの「公式ガイドブック」が販売されていて、一般の人でもガイドブックの応募要項に沿ってコンテストに参加できる。コンテストの分野は2通りあって、1つは「教会写真部門」、もう1つは、スポンサー部門となっている。詳細は、ここでは省くが、1等は賞金100万円である。
▼そこで、自分も馬込教会を題材にして、コンテスト用の写真を撮影し続けているというわけ。ちなみに今日2009年10月3日は、今年の中秋の名月になっている。長崎は絶好の月見日和、夜景の撮影日和である。自然な流れで、夜景の写真撮影に臨んでみた。
▼いろんなアングルで馬込教会は撮影可能だが、写真として見栄えがするのは正面と、背面からの両方かも知れない。正面は教会の威風堂々とした姿、背面からだと教会と、海と、長崎の港の風景が1枚に収まるので、見ていて飽きない写真が出来上がる。もちろん、自己満足の世界ではあるが。
中秋の名月限定の夜景も、なかなかいい写真が撮れた。公開はまだできないが、へぇと言いたくなるような1枚が出来上がっている。これらの写真をおかずに、5日から7日までの東京での研修会に、懐かしい顔と会おうかと思っている。できれば、の話だが。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===